ナンバープレートから見えるアメリカの州ハワイ州・Aloha State

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ハワイ州(Hawaii)のナンバープレートには「Aloha State」と印字されています。「いらっしゃい」、「こんにちは」、「お元気ですか」、というのがAlohaですね。外国旅行をしたことがない人でも一度は行ってみるところがハワイです。言葉が通じ、食べ物が豊富で美味しく、景色がエキゾチックで、気候が温暖なのですから人気が高いのもうなずけます。誠に手頃な観光地です。ですが文化や歴史の多様な姿もまたハワイの魅力です。

License Plate of Hawaii

ほとんどの人類学者(anthropologists)は、ハワイへの最初の定住は、西暦4世紀から7世紀にかけてマルケサス諸島(Marquesas Islands)から北西に移住したポリネシア人(Polynesians)によるもので、その後、9世紀または10世紀にタヒチ(Tahiti)から移民の第2波がやって来たと考えています。1970年代に始まったハワイでの航海用カヌー(voyaging canoe)と伝統的な航行方法(navigation methods)の使用の復活によって実証された知恵と技能から、島々が最初の植民地化の後、かつて考えられていたほど孤立していなかった可能性があることを示しています。実際、ハワイと遠く離れたポリネシアの島々との間には、かなりの意図による航海があったと思われています。それでも、ハワイ人とその親戚であるポリネシア人との間には、言語や文化において依然としてかなりの類似点があるにもかかわらず、ハワイは独自の文化を発展させていきます。

Map of Hawaii

元々のハワイ人は漁業と農業に高度な技術を持っていました。18紀後半までに、彼らの社会は、首長と司祭(chiefs and priests)によって定められた厳格な法体系を持つ複雑なものになりました。人々は、神通力でも古代ギリシャのオリンポス山(Mount Olympus)の神々とは違った神々を崇拝し恐れていました。

ジェームズ・クック船長(Captain James Cook)は1778年にこの島々を訪れ、サンドウィッチ諸島(Sandwich Islands)と呼びます。その後40年間、ヨーロッパとアメリカの探検家、冒険家、猟師、捕鯨者が新鮮な物資を求めてハワイ諸島に立ち寄り島民に大きな影響を与えます。これらの影響の中でも特に重要なのは、東洋と西洋の両方からの病気の侵入です。島民はそれまで事実上病気にならず、自然免疫を持っていませんでした。性病(venereal disease)、コレラ(cholera)、麻疹(measles)、結核(tuberculosis)はすべて先住民の人口の減少をもたらし、その人口は1世紀ほど後の1890年代までに約30万人から4万人未満に減少します。

Captain James Cook

19世紀初頭、カメハメハ大王(King Kamehameha)がハワイ諸島を統一します。1820年にはニューイングランドの宣教師が続き、西洋の影響が島々を変えていきます。1851年、カメハメハ三世はハワイをアメリカの保護下に置くこととします。ですがアメリカの砂糖利権を巡って起こされたクーデターにより王政は倒され、1893年にハワイ共和国(Republic of Hawaii)が樹立されます。

King Kamehameha

その間、日本から多くの人々が移民しました。主としてオアフ島やハワイ島(Big Island)でのサトウキビ、パイナップル、珈琲栽培のためです。琉球からの移民が目立ちました。ハワイに到着すると、早速土地を開墾しサトウキビ栽培に従事していきます。今も琉球の名前を持つ人々がハワイの各地に大勢住んでいます。

1898年に新共和国とアメリカは併合に合意し、1900年にハワイはアメリカ領となります。1941年の日本軍による真珠湾(Pearl Harbor)爆撃をきっかけに、アメリカは第二次世界大戦に参戦し、ハワイは主要な海軍基地となります。1959年8月21日にハワイはアメリカ50番目の州となります。最大の産業は観光業です。マウナケア山頂(Mauna Kea)には望遠鏡があり、世界の天文学研究(World Astronomy Center)の中心地となっています。

ハワイ州は、大小100位の島々から成ります。これらは海底火山によってつくられました。州都ホノルルのあるオアフ島は最も知られていますが、是非訪ねたいのはハワイ島(Hawaii)やカウアイ島(Kauai)、後述するモロカイ島(Molokai)などです。ハワイ島には日系移民によって開発された一番大きな町、ヒロ(Hilo)があります。そこに日系移民博物館があります。驚くことに、館内の展示物には神武天皇をはじめ、代々の天皇の写真が飾ってあります。日系移民の日本に対する郷愁と深い想いがこめられているのを感じます。

先住のハワイ人やポリネシア系が約10%なのに比べ、日系人は17%を占めます。政治、経済、社会における活躍は目覚ましいものがあります。日系人の活躍としては、戦時中の志願兵の活躍が特筆されます。ハワイで生まれの若い日系アメリカ人の多くは、志願兵として祖国に対する忠誠心を示し合衆国陸軍の大隊に入ります。この部隊は第442連隊戦闘団(442nd Regimental Combat Team)と呼ばれ、真珠湾攻撃後、日系アメリカ人の兵役が禁止されていた時期に結成されます。この部隊は日系人だけで組織され、やがてイタリアやフランスなどのヨーロッパ戦線にて戦果を上げます。この戦闘団のモットーは「Go for Broke」といって「当たって砕けろ!」でした。オアフ島の真珠湾に浮かぶ戦艦アリゾナ記念館(Arizona Memorial)や戦艦ミズーリ号(Missouri)などを訪れると太平洋戦争の歴史が身近なものとなります。

The 442nd RCT

マウナケア山頂付近は、国立天文台が設置したすばる望遠鏡があります。周りには世界各国の天文台も並んでいます。ここに兵教大の院生とで天文台内部を見学する許可を得て訪ねました。ついでに山頂へも登ったのですが、酸素が薄くて息が苦しかったのを覚えています。ハワイ島のキラウエア(Kilauea)火山からの熔岩流は今も蒸気を上げています。そして虹が地平線から地平線まで見事なアーチを描きます。一行の中にいた中学理科の教師にはたまらない見学ツアーとなったようです。

Mauna-Kea

ハワイの高校には二つの有名な私立学校があります。カメハメハ・スクール(Kamehameha Schools)とプナホウ・スクール(Punahou School)です。カメハメハ・スクールは1887年に、カメハメハ家のバーニス・パウアヒ・ビショップ(Bernice Pauahi Bishop)の遺産によって設置されました。カメハメハ・スクールではプリスクール、1~12年生までの教育を行っており、英語で教えて大学への入学へ備えます。ハワイ語とハワイ文化も十分教えて、ハワイ人としての教育にも重点を置いています。バラク・オバマ元大統領の母校でもあるプナホウ・スクールは1841年の創立で、幼稚園から高校までの生徒3750名が通うアメリカ国内でも最大規模の学校です。プナホウ・スクール卒業生の大学進学率はほぼ100%という名門校となっています。
(投稿日時 2024年3月26日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州マサチューセッツ州・Spirit of America

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マサチューセッツ州(Massachusetts)のナンバープレートには「Spirit of America」というキャッチフレーズが印字されています。これは、建国の精神を意味します。州都はボストン(Boston)です。

License Plate of Massachusetts

イギリス人探検家でジェームスタウン・コロニー(Jamestown Colony)にいたジョン・スミス(John Smith)は、マサチューセッツ族(Massachusetts)にちなんでこの州を命名したとされます。「Massachusetts」とは、もともと「大きな丘の近く」(near the great hill)という意味だったといわれます。マサチューセッツ州といえば、ボストンを第一に挙げなければならないでしょう。その名前の由来です。チャールスタウン・コミュニティ(Charlestown Community)は「聖ボトルフの町」(St. Botolph’s town)として知られていたようですが、後に「ボストン」に改名されたといわれます。

1602年に最初のイギリス人入植者バーソロミュー・ゴスノルド(Bartholomew Gosnold)が到着したとき、この地域にはアルゴン族(Algonquian)が住んでいました。プリマス(Plymouth)は、1620年にメイフラワー号(Mayflower)で到着したピルグリム(Pilgrims)やピューリタン(Puritans)によって開拓されます。マサチューセッツ湾(Massachusetts Bay)植民地はマサチューセッツ・ベイ社によって設立・統治され、ピューリタン(Puritan)の入植に拍車をかけていきます。1643年にニューイングランド連合に加盟し、1652年にメイン州を獲得します。

Mayflower in Plymouth

マサチューセッツ州は、その歴史と文化が合衆国全体のものよりも古いという点が特徴的といえます。ピューリタンらが大英帝国(British Empire)の統治から逃れて新世界に定住し、最終的に信仰の自由を得ようとしました。1620年にメイフラワー協定(Mayflower Compact)や初期の法典である1641年の「自由の基盤」(Body of Liberties)などの文書により、政府は個人の表現や同意を保護する保証に基づいて統治すべきであるという概念が定められます。

こうした個人の自由の概念は、大英帝国の一部であった植民地の地位と衝突するようになります。アメリカ独立戦争はマサチューセッツ州で始まり、イギリスの植民地支配に対する最初の抵抗が始まりました。ボストン茶会事件(Boston Tea Party)に代表されるように、入植者たちが代表権のない課税に反対の声を上げ、叫んだのはマサチューセッツ州民であります。マサチューセッツ入植者の活動は他の人々に影響を与え、1775年のレキシントン・コンコードの戦い(Battles of Lexington and Concord)で「世界中で聞こえた銃声」“shot heard round the world”で最高潮に達します。

Battle of Lexington-Concord

州の南東部と中央部の入植地は1675年にフィリップ王の戦争 (King Philip’s War)を経験します。1684年に最初の勅許を失った後、1686年にニューイングランド自治領(Dominion of New England)の一部となります。1691年の2度目の勅許により、メイン州とプリマスを管轄することになります。1680年頃から、マサチューセッツはイギリスの植民地となります。1760年代になると、マサチューセッツ憲法として権利の宣言と政府の樹立を叫び、イギリスの支配に反旗を翻します。やがて独立戦争が始まるのです。この自治と独立の精神が「Spirit of America」というものです。

18世紀、マサチューセッツはイギリスの植民地政策に対する抵抗の中心地となります。独立後の1788年には合衆国憲法を批准した6番目の州となります。19世紀になると産業革命の最前線となり、織物工業で知られるようになります。

今日の州の主要産業はエレクトロニクス、ハイテク、通信技術です。多くの高等教育機関があることでも知られています。観光業は、特にケープコッド(Cape Cod)地方とバークシャー地方(Berkshires)が知られています。マサチューセッツ州は、この新しい国が農業経済から工業経済への転換を始めた先駆的な州であります。貿易によって富を得たフランシス・ローウェル (Francis C. Lowell)のような州の商人は、1812年の米英戦争で深刻な損失を被りますが、より安全な投資を模索していきます。その結果、繊維、ブーツ、機械の製造はマサチューセッツ州やロードアイランド州(Rhode Island)で始まり、やがて繁栄の基礎を築いていきます。北東部の州で工業化や都市化が進みます。1870 年代半ばまでに、マサチューセッツ州は合衆国で初めて、地方よりも町や都市に住む人の方が多い州となります。

Lowell Mills

19世紀を通じて、マサチューセッツ州は主要な製造業の中心地となりました。20世紀前半の南部との競争は大規模な経済衰退をもたらし、その結果、州全体の工場が閉鎖されていきました。しかし、第二次世界大戦と冷戦は、国防支出という連邦政府の巨額に依存する新たなハイテク産業を生み出します。他方、金融、教育、医療などのサービス活動も拡大し、ボストンを中心とした新たな経済が発展します。2004年、マサチューセッツ州は同性結婚を合法化(same-sex marriage)した最初の州となります。この法律は、個人が所属する重要な組織から特定の国民を排除することは個人の自治と法的平等の原則に反すると規定します。地域社会のニーズに配慮しながら、個人の自由を尊重しようとするマサチューセッツ州の長い闘いの結果、アメリカの特徴である民主主義の原則と資本主義の推進の連携が生まれるのです。

1840年代、均等となったヤンキー(Yankee)社会に、アイルランドのジャガイモ飢饉(Potato Famine)の惨状から逃れてきたローマ・カトリック教徒のアイルランド人の波が押し寄せます。同様に1860年代、カナダの農業貧困のため、ヤンキー起業家(Yankee entrepreneurs)が開拓した新しい工場システムの労働者として大量のフランス系カナダ人(French Canadians)がマサチューセッツ州に流れてきます。ヤンキーと移民の間で深刻な対立と敵意が生じましたが、19世紀の産業の繁栄はこれらの対立を改善するのに役立ちます。

17世紀には、土地に飢えたイギリス人入植者がアメリカ先住民を強制的に追い出し始め、また非常に多くの先住民がヨーロッパの病気で亡くなります。こうしたプロテスタントのイギリス人入植者、またはヤンキーといわれる人々は、200年以上にわたり支配的な人口となりました。1890年代までに、20世紀の最初の数十年間に至るまで、イタリア、ポルトガル、ギリシャ、東ヨーロッパから新たな移民がやって来て、繁栄していた州の工場で働くようになりました。1920年までに人口の3分の2が移民か移民の子どもとなり、ヤンキースは明らかに少数派となっていきます。そういう状況で1924年に連邦移民法(Immigration National Act)が可決され、移民は大幅に削減されていきます。

Boston Tea Party

プリマス(Plymouth)は州都ボストンから車で一時間のところにある港町です。ここにメイフラワー号(Mayflower II)のレプリカが停泊しています。メイフラワー号は1620年頃にヨーロッパからこのあたりに着いたことが記されています。長くてつらい大西洋の航海だったようです。

最初の移民の多くは聖教徒でした。船から下りた聖教徒が開拓したところが今も大切に保存されています。この居留地はプリマス開拓地(Plimoth Patuxet)と呼ばれて州の歴史的な公園となっています。開拓地は高い木の柵が巡らされてインディアンからの襲撃に備えたことを伺わせます。プリマス開拓地に入りますと、そこは1600年代という設定です。タイムスリップするのです。そこで働く人は百姓、鍛冶屋、洋服屋、パン屋さんなどいろいろです。当時の服装、言葉、動作で観光客に対応します。観光客はそのことを知らされません。次ぎのような会話が交わされます。

Plimoth Plantation

  観光客:当時は電気はありましたか?
  働く人:電気ってなんですか?
  働く人:どこから来ましたか?
  観光客:日本からきました。
  働く人:日本ってなんですか?どこにありますか?
  観光客:アジアです。
  働く人:どうやってここまで来ましたか?
  観光客:飛行機と車できました。 
  働く人:飛行機とか車ってなんですか?
  観光客:飛行機も車も知らないんですか、、、、。

このあたりまで会話が進むと、ちんぷんかんぷんの観光客もようやく「ここは1620年頃なのだな、、、」と合点がいきます。舞台が昔の開拓地であるという発想と働く人々の演技にえらく感心します。

ボストンはアメリカ独立戦争で大きな役割を果たしたことから、この時期の史跡の一部は、ボストン国立歴史公園(Boston National History Park)の一部として保存されています。その多くは、「フリーダムトレイル」(Freedom Trail)というルートに沿って歩いて見て回ることができます。フリーダムトレイルは、地面に赤い線が引かれた約4kmのウォーキングコースです。ボストンコモン(Boston Common)から始まり、州議事堂(State Capitol)、パークストリート教会(Parksteet Church)、オールドサウス集会所(Old State House)、旧州議事堂(Old State Capitol)、ボストン虐殺事件跡地(Boston Massacre)、オールドノース教会(Old North Church)、チャールズタウン(Charlestown)のバンカーヒル記念塔(Bankerhill Monument)など、16の公式スポットを巡るのです。ファニエル・ホール(Faneuil Hall)という商店街や会議場や、近くのクインシー・マーケット(Quincy Market)は、ショッピング、食事、各種イベントが楽しめ、観光客や市民が集まる場所となっていて年間1800万人以上がここを訪れます。

Battle of Bunker Hill

ボストンには、著名な美術館もいくつかあります。ボストン美術館(Museum of Fine Arts)がその代表です。エジプト美術から現代美術まで45万点以上の収蔵作品を誇ります。特に浮世絵をはじめとする日本美術、中国美術は、西洋でも屈指のコレクションとして知られています。ボストン公共図書館(Boston Public Library)は、1848年創設の歴史をもち、アメリカ最古の公立図書館であり、人々に無料で公開されています。かつて小澤征爾が音楽監督をしていたボストン交響楽団(Boston Symphony Orchestra)もここにあります。

ボストンはその文化的風土が高く評価されて、「アメリカのアテネ」(Athens of America)との名声を得ています。その理由の一つは学問的な名声にあります。ボストンの文化は大学から発している部分が大きいといわれます。ボストン都市圏内に50を超える単科・総合大学があり、教育・研究活動行っています。ボストンとケンブリッジ(Cambridge)だけでも、大学に通う学生は25万人を超えるといわれます。その中心はなんといってもハーヴァード大学(Harvard University)でありマサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology: MIT)といえましょう。

ナンバープレートから見えるアメリカの州ヴァジニア州・Mother of Presidents

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ヴァジニア州(Virginia)のナンバープレートにもいろいろなデザインがあります。うっそうとした豊かな森や清流など自然の生態系を反映してデザインには野鳥などを配置しています。ヴァジニアは、「アメリカ大統領の母なる地」「Mother of Presidents」の名にふさわしい風格のある州です。

License Plate of Virginia

ヴァジニア州東部の大部分に最初に定住したヨーロッパ人はイングランド人(English)で、イングランドの中部および南部の郡、特にロンドンとその周辺地域からやって来ました。1700年代には、ウェールズ人(Welsh)とフランスのユグノー人(Huguenots)が移民の中で目立っていて、スコッチ・アイリッシュ(Scotch-Irish)とドイツ系(German)の人々がペンシルベニア(Pennsylvania)からシェナンドー渓谷(Shenandoah Valley)に移住してきました。特に西部と南西部の郡では、スコットランド系アイルランド人とイギリス人の祖先を持つ人々が今でも多数派を占めています。

Map of Virginia

ヴァジニア州は、清教徒連邦(Puritan Commonwealth)と1653年から1659年の間に保護領(Protectorate)亡命したイングランド王チャールズ二世(Charles II)への忠誠心からオールド・ドミニオン(Old Dominion)と呼ばれました。17世紀初頭のジェームスタウン(Jamestoewn)入植以来、アメリカの州の中で最も長く続いている歴史の1つです。処女女王エリザベス一世(Elizabeth I)にちなんで名付けられ、当初の憲章では、大西洋岸の入植地からミシシッピ川、さらにその先まで西に広がる土地のほとんどが与えられましたが、ヨーロッパ人には未踏の領域でした。ジョージ ワシントン(George Washington)、トーマス ジェファソン(Thomas Jefferson)、ジェームズ マディソン(James Madison)などのヴァジニア人の貢献はアメリカ合衆国の建国に極めて重要であり、共和国の初期の数十年間、この州は大統領誕生の地として知られていました。

Alexandria, VA

1607年にイギリス初のアメリカ植民地がジェームズタウン(Jamestown)に設立された時、ヴァジニア州にもネイティブ・アメリカンが住んでいました。ヴァジニアからはアメリカ独立革命の指導者を生み、後にアメリカ最初の大統領5人のうち4人を輩出していきます。1788年には合衆国憲法を批准した10番目の州となります。

奴隷制度はヴァジニア州経済の重要な部分を占めていました。1831年にナット・ターナー(Nat Turner)の奴隷反乱がここで起こりました。奴隷であり反乱の指導者ナットは数人の信頼する仲間の奴隷と決起します。反乱は家から家へと伝わり、奴隷を解放し、見付けた白人全てを殺したといわれます。最終的に反乱に加わった奴隷は自由黒人を含めて50名以上になります。ナットとその反乱部隊が白人民兵の抵抗に遭った時、既に57名の白人男女や子どもが殺されていました。

Nat Turner Rebellion

Governor’s Palace, Williamsburg

南北戦争が始まってすぐの1861年に、ヴァジニア州は連邦(Union)から離脱します。リッチモンド(Richmond)は南部連合(Confederacy)の首都となります。そしてヴァジニアは戦争を通じて主な戦場となります。ただヴァジニア州西部は連邦からの離脱を拒否します。1863年に分離してウェストヴァジニア州ができました。ヴァジニア州は1870年に連邦への再加盟を認められました。その後数10年間、州の債務をめぐる争いが政治生活を引き継ぎましたが、第一次世界大戦後、州の繁栄は増大していきます。

第二次世界大戦により、数千人の捕虜がヴァジニア州の軍事キャンプに収容され、港町のノーフォーク(Norfolk)地域は急速な成長を遂げます。ヴァジニア州にとっては、連邦政府は州最大の雇用主であり、製造業は二番目に大きい規模となっています。州南東部の海域およびそれを取り囲む陸域であるハンプトン ローズ(Hampton Roads)は、国内有数の港の1つであり一大観光地域でもあります。

ヴァジニア州は正式には「Commonwealth of Virginia」と呼ばれます。植民地時代から地域がそれぞれに共通した目標である独立に向けて共に発展するという意思を表しています。歴代4名の大統領とは、ジョージ・ワシントン、トマス・ジェファソンらです。それゆえに「アメリカ大統領の母なる地」とも言われるほどです。ワシントンDCの対岸の州内にはアメリカ国防総省(Pentagon)やCIA本部もあります。

Monticello,VA

観光は州の重要な産業です。ヴァジニア州には、植民地時代のウィリアムズバーグ(Williamsburg)、ジョージ ワシントンの邸宅であるマウント・バーノン(Mount Vernon)、トマス・ジェファソンのモンティチェロ(Monticello)、南北戦争の戦場、現在のアーリントン国立墓地(Arlington National Cemetery)の敷地内にあるロバート・リー(Robert E. Lee)将軍の家など、多くの史跡があります。特に、ウィリアムズバーグは是非訪れたいところです。1690年代には植民地時代の首都でありました。2.25キロ平方の地域に入植当時の建物はすっかり復元されて、植民地時代の面影を感じることができます。

Jefferson Memorial

1693年設立のウィリアム・アンド・メアリー大学(College of William and Mary)は、この国で2番目に古い大学です。この大学は、イングランド国教会によって設立され、イギリス国王の勅許状を持つ最初のアメリカの大学となりました。ハーヴァード大学に続いてアメリカで最も由緒のある、また優れた学部教育のカレッジとして知られています。研究機関の中心はなんといってもヴァジニア大学です。創立は1819年、ジェファソンらによって創建されました。学内のすべての建物がコロニアルスタイル(colonial style)で統一され、全米で最も美しい大学キャンパスと称されています。これらの大学は、「最も入学が難しい大学」 (Most Selective)となっています。

College of William & Mary

ナンバープレートから見えるアメリカの州ネブラスカ州・The Good Life

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ネブラスカ州(Nebraska) のナンバープレートには「The Good Life」とあります。「楽しく住めるところ」といった感じですね。「Give a good life」「Beef State」「Cornhusker State」というフレーズのもあります。。「Cornhusker」 とは「トウモロコシの皮をむく人とか機械」という意味です。ネブラスカ州人の俗称です。プレートには、小麦や鳥、大平原と煙突のような岩山が描かれていて素敵なデザインです。

License Plate of Nebraska

ネブラスカ州は合衆国のほぼ真ん中に位置しています。北はサウスダコタ(South Dakota)に、東はアイオワ(Iowa)とミズーリ(Missouri)に、西はワイオミング(Wyoming)とコロラドに、南はカンザス州に囲まれています。州都はオマハ(Omaha)。州の大部分は平坦な大平原が広がります。トウモロコシを中心とする穀物地帯です。牛肉や豚肉の生産でも知られています。

Map of Nebraska

ネブラスカ州は合衆国中西部の州の一つであり、第一次世界大戦中、主に北部と西部の豊かな罠猟の国、および山岳地帯と太平洋地域の入植地と鉱山の辺境に移住する人々の中継地でした。19世紀の半ば、南北戦争(1861~1865年)後の鉄道の発展とそれに伴う移民により、ネブラスカ州の肥沃な土壌が耕され、その草原では牧畜産業が生まれました。その結果、同州は発足以来主要な食料生産国となります。

紀元前8000年頃には先史時代のさまざまな民族がこの地域に居住していたといわれます。この地域に住むネイティブ・アメリカンの部族には、東部と中央部にポーニー族(Pawnee)、オト族(Otho)、オマハ族(Omaha)、西部にオグララ族(Oglala)、スー族(Sioux)、アラパホ族(Arapaho)、コマンチ族(Comanche)が住んでいました。アメリカは1803年にルイジアナ購入の一部としてフランスからこの領土を買い取ります。

ヨーロッパの探検家がネブラスカ州に到着する何世紀も前に、ネイティブ・アメリカンがこの地域に住んでいました。1854年の入植地開放に伴い、連邦政府はネブラスカ州北東部にオマハ族(Omaha)の保留地を設け、その後その一部はウィスコンシン州から避難してきたホーチャンク族(Ho-Chunk)の保留地となります。ミネソタ州のサンティー・スー族(Santee Sioux)の一部はネブラスカ州北東部の居留地への移住を余儀なくされます。オマハ・ホーチャンクおよびサンティー・スーの居留地は今も存在しています。さらに、アイオワ族(Iowa)、ソーク族(Sauk)およびフォックス族(Fox)のそれぞれの居留地が州の最南東の隅にあります。21 世紀初頭までに、州人口の約1パーセントがネイティブ アメリカンで構成され、オマハ(Omaha)とリンカーン(Lincoln)に住んでいました。

Chimney Rock

1804年、ルイス・クラーク探検隊(Lewis and Clark Expedition)がミズーリ川(Missouri River)のネブラスカ側を訪れます。1854年のカンザス・ネブラスカ法によりネブラスカ準州の一部となります。ネブラスカ州は1867年に37番目の州として連邦に加盟します。その後まもなく人口が増加し、開拓時代のインディアンの抵抗がなくなると、入植地はネブラスカ州の細長く伸びたパンハンドル(panhandle)にまで広がります。

ネブラスカ州には国東部からの白人入植者に加えて、19 世紀後半に多数のヨーロッパ人移民がネブラスカ州に定住しました。最大の移民グループはドイツ人で、1890年には72,000人を数えました。スカンジナビア諸国(Scandinavia)、特にスウェーデン、ボヘミア(Bohemia)、ブリテン諸島(British Isles)からの移民、そしてアメリカに移住する前に最初にロシアに移住した別の異なるドイツ人グループもネブラスカ州に定住しました。

Old Gas Station

ボヘミア、ドイツ、アイルランドからの多数の人々はローマカトリック教徒(Roman Catholics)でした。ドイツとスカンジナビア出身のルーテル派の教徒、そしてドイツ系ロシア人移民の中のメノナイト(Mennonites)は、ネブラスカ州の宗教的や世俗的な生活に多様性をもたらしていきます。非英語を話すグループの言語的アイデンティティは世代ごとに薄れてきましたが、彼らの多様な文化遺産は今も生き残っています。

川はネブラスカ州の地理と居住地にとって重要でした。ネブラスカ州人の大多数はミズーリ川とプラット川(Platte River)の近くに住んでおり、州の大部分は人口が少ないです。ミズーリ川は、19世紀初頭、ミシシッピ州西部へ向かう主要幹線道路であり、プラット川はネブラスカ州の歴史においても重要な役割を果たしてきました。実際、州の名前はオトインディアンOto Indianの言葉で「平らな水」(Flat Water)という意味のネブラスカ(Nebrathka)(に由来しています。

Corn Field

20世紀に入ると、短期間ではありましたがポピュリスト運動という政治変革が起こります。改革を目指す勢力が、既成の権力構造やエリート層を批判し、人民による政治を目指す運動のことです。1937年には国内唯一の一院制議会を設置したのもネブラスカ州です。州の大部分は農業で、食品加工や機械産業が盛んです。主な鉱物資源は石油で、リンカーン(Lincoln) のほか、オマハが州の文化・産業の中心地となっています。

ネブラスカに関するエピソードがあります。学校の教師らとでネブラスカへ行ったとき、入国手続きをしたデトロイト空港でのことです。家内の番になりまして審査官との間で次のような会話が交わされました。

 審査官 「入国の目的は?」
 家内 「観光です」
 審査官 「これからどこへ行くのか?」
 家内 「ネブラスカです」
 審査官(けげんな表情で)「ネブラスカのどこで観光するのか?」
 家内 「リンカーンです」
 審査官 「観光でネブラスカへ行く日本人に会ったのはあんたが初めてだ、、、」

デトロイト経由の乗客の中で、観光でやってくる日本人の99%はニューヨークとかボストンとかフロリダへ行くのです。審査官も驚いたのでしょう。「ネブラスカに観光へ」には審査官は苦笑いしていましたね。

ネブラスカの西部にはチムニー・ロック(Chimney Rock)など巨大な岩で知られています。このあたりはでは沢山の恐竜が発掘されています。きわめて保存状態が良く恐竜の骨格がはっきりしています。それを展示しているのがネブラスカ大学リンカーン校(University of Nebraska-Lincoln)です。ここの恐竜博物館(Dinosaur Museum)は圧巻ものです。大勢の児童生徒が社会勉強であるフィールドトリップにあの黄色い車体のスクールバスでやってきます。

Soy Bean Field

ネブラスカ大学にDlwyne Harnischという教授がいました。兵庫教育大学にも客員教授として6か月間招いたことがあります。教育統計学の専門で多くの日本人研究者を暖かく招いてくれました。。ネブラスカ大学のフットボールチームはBig Ten Conferenceで何度も優勝した強豪です。そのときのコーチはのちにレジェンドと呼ばれたトム・オズボーン(Tom Osborne)で255勝49敗という戦績を残します。後にネブラスカ州からの共和党の連邦下院議員となります。
(2024年3月14日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ニューハンプシャー州・Live Free or Die

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ニューハンプシャー州(New Hampshire)のナンバープレートには「Live Free or Die」と描かれています。「自由を与えよ、さらば死を」という意味です。いわゆるニューイングランド地域の一部で、北部及び北西部でカナダのケベック州(Quebec)、東部はメイン州(Maine)、南部はマサチューセッツ州(Massachusetts)、そして西部はヴァモント州(Vermont)と隣り合っています。

License Plate of New Hampshire


1623年に最初のイギリス人がポーツマス(Portsmouth)近郊に定住したとき、この地域にはアルゴンキ語(Algonquian)を話す人々が住んでいました。この地域は1641年にマサチューセッツ州の管轄下に入り、1679年に独立した王家の植民地となります。ニューハンプシャーは最初にイギリスの統治を離脱し独立への歩みを踏み出します。1776年にイギリスからの独立を宣言した最初の植民地です。独立宣言後、最初の13州の一つともなります。合衆国の州として最初に憲法を制定した州となります。

Map of New Hampshire

花崗岩の州(Granite State)として知られるニューハンプシャー州は、さまざまな多様性の研究対象の州としても知られています。19世紀後半以来、連合内で最も工業化が進んだ6州の1つでありながら、農業と牧畜が盛んな州として描かれることがよくあります。ニューハンプシャー州は、ヴァモント州と同様に、白人でアングロサクソン系プロテスタント(White-Anglo-Saxon Protestants: WASP)が多数を占める「ヤンキー王国」(Yankee Kingdom)を構成しているといわれます。同州にはフランス系カナダ人、ドイツ人、イタリア人、ポーランド人、その他非英国人を祖先に持つ住民が多数住んでいます。

その政治的評価ですが、ビジネス寄りで保守的ですが、唯一最大の州の資金源は企業利益税となっています。さらに、同州は同性カップル(same-sex couples)のシビル・ユニオン(civil unions)を合法化した最初の州の一つとなっています。 ニューハンプシャー州の地域区分は非常に複雑なので、メイン州(Maine)、ヴァモント州、マサチューセッツ州をほぼ同じ割合で加えて3分の1に分割することを多くの人が提案しているのは興味深いことです。

Downtown Portsmouth

こうした議論はありますが、この州ははっきりとした特徴とかアイデンティティ(identity)を発展させてきました。そのアイデンティティの中心となるのは州政府の倹約のイメージです。ニューハンプシャー州には一般消費税や個人所得税がありません。州レベルでの倹約は町への責任の分散を強調した。市政府はニューイングランドのすべての州に存在しますが、ニューハンプシャーほど独自のサービスを提供する権限や責任を負っている州はありません。

そのアイデンティティのさらにもう1つの要素は、伝統への強いこだわりです。これは、「山の老人」(Old Man of the Mountain)として知られるフランコニア・ノッチ(Franconia Notch)の岩の輪郭によって長い間力強く象徴されているといわれます。 倹約、地方分権、伝統主義、工業化、民族性、地理的多様性の組み合わせにより、ニューハンプシャー州は多くのアメリカ人にとって非常に魅力的な都市となっています。ところでフランコニア・ノッチとは、州立公園のことで、キャノン山(Cannon Mountain)の州営スキー場が起点となっています。キャノン山は頂上の岩の形が山の老人に似ていたそうです。

Colonial Style House

建国後、ニューハンプシャー州は急速に発展します。農業が栄え、河川沿いで製造業が発展します。ポーツマスは造船の中心地となります。現在は主に製造業と観光業が経済の基盤となっていますが、酪農と花崗岩の採石も重要です。合衆国で最も早く大統領予備選挙が行われるので、多くの候補者の最初の試練の場となっています。その後の各州での大統領選挙を予測するうえで重要な選挙となっています。

ニューハンプシャーの州都はコンコード(Concord)という小さな街です。コロニアルスタイルといわれる町並です。植民地時代の木造家屋のデザインを示します。この州で忘れられないところがポーツマスという街です。日露戦争が終わり、当時の大統領ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の仲介でポーツマス条約(Portsmouth Peace Treaty)が締結された街、それがポーツマスです。実に小さな港町です。こんなところで条約が結ばれたのか、と頭をかしげたくなるようなのんびりとした所です。街全体がコロニアルスタイルです。

Treaty of Portsmouth

日露戦争後、講和条約締結交渉の日本の代表は外務大臣の小村寿太郎、ロシアは元大蔵大臣のセルゲイ・ウイッテ(Sergei Witte)です。ポーツマスの博物館に当時の交渉の様子を報道した写真や新聞記事が飾られています。大男のウイッテが小男の小村を威圧するイラストがあります。当時ロシアはヨーロッパの大国、日本はアジアの小国でした。アメリカは太平洋の利権があって日本に同情的な姿勢であったことを伺わせます。

当時日本は戦争のために財政が逼迫して、また、ロシアでは国内で革命運動が起こるなど両国ともこれ以上、戦争を続けることはむずかしい状況にありました。交渉にあたり困難を極めたのは、日本の国民が戦争に勝利したとして、戦勝国としての見返りを期待していたのに対し、ロシアには敗戦国としての認識はなかったようでした。こうした中で、小村寿太郎らは戦争終結のため、困難な外交努力を重ねて条約をまとめ上げていったといわれます。

日本への風刺画

ポーツマス条約では、ロシアは北緯50度以南の樺太(サハリン)を日本に譲渡する、日本の韓国における軍事・経済上の卓越した利益を承認し、日本が韓国に指導・保護・監理の措置をとるのを妨げない、日露両国は満州から同時に撤退し、満州を清国に還付する、ロシアは、清国の承認を得て、長春・旅順口間の鉄道を日本に譲る、ロシアはロシア沿岸の漁業権を日本に譲る、などが定められました。

講和前と講和後の日本地図

交渉の会場となったポーツマス海軍工廠(Portsmouth Naval Arsenal)では、1994年3月に会議当時の写真や資料を展示する常設の「ポーツマス条約記念館」が開設されます。

アメリカにはNewが付く州や町がたくさんあります。州ではNew Mexico, New Jersey, ご存じNew York, New London, New Berlin, New Heavenという街もあります。イギリスやヨーロッパ各地からの移民が開拓したことを伺わせます。1769年創立のダートマス大学(Dartmouth College)とニューハンプシャー大学(University of New Hampshire)は州の2大教育機関となっています。

私にとってのニューハンプシャーとの繋がりは、長男の嫁の両親がポーツマスの隣町に住んでいることです。ポーツマスは実に長閑とした綺麗な港町です。条約交渉を伝える博物館は興味ありました。
(投稿日時 2024年3月11日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ヴァモント州・Green Mountain State

注目

ヴァモント州(Vermont)の愛称は「Green Mountain State」で、これがナンバープレートに書かれています。プレートも緑色で、こだわりを感じます。この州は、合衆国北東部のニューイングランド(New England)地方の内陸にあります。北はカナダのケベック州(Quebec)に、東はニューハンプシャー州(New Hampshire)、南はマサチューセッツ州(Massachusetts)、西はニューヨーク州に隣接しています(New York)。州都モントピーリエ(Montpelier)は全米で最も小さい州都といわれています。最大の都市はバーリントン(Burlington)なのですが、この町も全州の中での最大の都市に比べで最も小さい都市といわれています。少々可笑味があります。それだけ小さい州というわけです。2024年3月12日のスーパーチューズデイ(Super Tuesday)で、共和党大統領候補者選びの選挙においてニッキー・ヘイリー(Nikki Haley)が唯一勝利した州がヴァモントです。しかし、ヘイリーは選挙戦から離脱することを宣言しました。

License Plate of Vermont

ヴァモントには当初はアベナキ(Abenaki)族が定住していましたが、1609年にサミュエル・ド・シャンプラン(Samuel de Champlai)がこの地を探検し、湖を発見し自分の名を冠します。1666年、フランス人がアイル・ラ・モット(Isle La Motte)にヨーロッパ人初の定住地を築きます。18世紀にはオランダ人とイギリス人が入植しますが、1763年にこの地域はイギリス人の手に渡ります。ニューヨークとニューハンプシャーの間では、この地域の管轄権をめぐって紛争が起こります。1770年、イーサン・アレン(Ethan Allen) はグリーン・マウンテン・ボーイズ(Green Mountain Boys) を組織し、ニューヨーク西部からのイギリス軍侵入者を撃退します。Green Mountain Boysがナンバープレートにあるフレーズの由来となっています。

Map of Vermont


1775年にアメリカ独立戦争が始まると、アレンと彼のグループは植民地のために戦い、イギリス軍からタイコンデロガ砦(Fort Ticonderoga)を占領します。ヴァモント州民は1777年に独立共和制を樹立し、1791年にはアメリカ第14番目の州となります。南北戦争中の1864年、南軍の一団がカナダからセント・アルバンズ(St. Albans) を襲撃し、ペンシルベニア州以北で唯一の戦場となります。

ヴァモント州は、政治や経済、社会面でアメリカの初期より素朴な時代を着実にに形成してきた地域といわれています。今日、毎年何百万人もの人々が州を訪れ、何千人もの州外居住者がヴァモント州に別荘を構えています。こうした裕福な人々は主に、ヴァモント州の山々や狭い渓谷の美しさと静けさ、そして州全体に広がるこの国の過去の雰囲気を求めているからです。緑豊かな山に囲まれた小さな町の上にそびえる白い木造の教会の尖塔、傾斜した山の牧草地に佇む乳牛の群れ、そして紅葉の並木道の赤金色の葉は、絵画の中で描かれている風光明媚なヴァモント州の側面です。ヴァモント州のさまざまな写真はアメリカの田舎の象徴となっています。

Chapel in a Small Town, Vermont

開拓初期の時代には、多くの人が生まれ故郷のヴァモント州を離れ、開拓された西部や北東部の都市部での機会を求めました。その後多くの進歩的な考えの人々が、精神的なよりどころを求めて定住してきました。ヴァモント州は国の歴史の表舞台に立ったことがありませんが、ヴァモントは、国の過去の伝統と現在の発展という連続性を穏健に伝えてきたところとなっています。

州の人口の大多数はヨーロッパ系です。アフリカ系アメリカ人、ネイティブ・アメリカン、その他のグループは、人口のほんの一部を占めています。フランス系(French)またはフランス系カナダ人(French Canadian)は全体の約3分の1を占め、イギリス系(English)とアイルランド系(Irish)はそれぞれ約4分の1と5分の1を占めます。

Constitution House, Windsor

さまざまなグループの到来は、多くの場合、ヴァモント州の経済発展の段階にみられます。1848年にヴァモント州に初めて鉄道が建設されたとき、多数のアイルランド移民が労働者として雇用されました。彼らの子孫の多くは現在、ラトランド(Rutland)、バーリントン、セントアルバンズ(St. Albans)、その他の大きな町に住んでいます。1900年代初頭、ケベック州(Quebec)出身のフランス系カナダ人がケベック州に定住し、その多くは毛織物の町ウィヌースキー(Winooski)に定住し、その他は北部国境沿いの農場に定住しました。今日、ヴァモント州の少数の住民が今でもフランス語を第一言語として使っています。

Spring in Vermont

イタリア北部からの移民は、何世紀にもわたる採石や石の彫刻の伝統をバーレ(Barre)や他の花崗岩の産地で継承していきました。そのためバーレやってくる観光客は、ヴァモント州の町々で期待する長閑な風景とは全く異なる印象を受けたはずです。スペイン北部からの他の採石場労働者はバール・モンテピーリエ(Barre-Montpelier)地域に定住します。多くのウェールズ人(Welshmen)はヴァモント州西部のスレート鉱山で働きました。彼らは故郷で鉱山での仕事に精通していたからです。ポーランドからの移民はブラトルボロ(Brattleboro)、スプリングフィールド(Springfield)、その他の製造業の町に職を求めました。産業労働力のわずかなニーズと州の田舎という特性で、合衆国南部からアフリカ系アメリカ人がほとんど集まりませんでした。

プロテスタントの背景とイギリスの血統を持つ初期アメリカ人の子孫であるヴァモント州民は歴史的に多数を占めており、州民はほぼ典型的なヤンキー(Yankees)です。ヤンキーとは、ニュー イングランドなど合衆国北部の人々の呼称です。ヴァモント州では、村の緑やメインストリートに白枠の教会がない町はほとんどありません。事実上、プロテスタントのすべての宗派がヴァモント州に見られます。ヴァモント州北東部のカレドニア郡(Caledonia)地域には長老派教会(Presbyterian Church)が集中しています。

カレドニアという名前は、ローマ時代のイギリス北部の呼称であり、1770年代にこの地域に初めて定住したスコットランド人(Scottish)移民によってもたらされました。もともとスコットランドの主要な宗教は、宗教改革以前のスコットランド伝統のキリスト教会であるカトリックで、特にスコットランド中西部とハイランドにおいて盛んです。バーリントンのローマ・カトリック教区にはヴァモント州全域が含まれており、ローマ カトリック教徒はヴァモント州の総人口の約3分の1を占めています。

State Capitol

1930年代には最初のスキー場が建設され、1960年代には冬の観光産業が発展します。というわけで、ヴァモント州最大の産業は観光です。観光客の多くはインターステート(高速道路)で数時間の距離にあるニューヨークやボストンからやってきます。豊かな自然を売りにしてスキー、サイクリング、キャンプ、フィッシングの鱒釣りなどが盛んです。秋はりんご狩りなどに大勢の観光客が訪れます。この州で忘れられないのはメープル・シロップ(maple sylup)の生産です。全米で最大の生産量を誇っています。サトウカエデの樹液を集めて精製します。シロップの琥珀色は薄いほど高級となります。メープル・シロップは熱いパンケーキなどにかけてバターと一緒にいただくと最高です。

州の多くは山岳と森林で占められています。気候は内陸性ですから夏は暑く、冬は相当「しばれ」ます。ニューイングランドの紅葉は格別です。現在は畜産業と花崗岩と大理石の採掘が経済に貢献しています。

かつて、家族と一緒にカナダを旅してからモンテピーリエを通りました。小さな州議事堂のロタンダ(rotunda)といわれる中央のドーム内は州の博物館となっています。小さな州のヴァモントの歴史は、イギリスからの独立をヴァモントが宣言した1777年以来の州つくりと大自然との共存の歩みとなっています。
(投稿日時 2024年3月9日)

ノースカロライナと迫害されたキリスト教徒

注目

ノースカロライナ州のバーク郡(Burke County)というところの出身で、現在名古屋に住むRon Scronceという友人がいます。この郡にワルドー派(Waldensians)と呼ばれるキリスト教一派の人々が住む、人口4,689人のヴァルデイズ(Valdese)という小さな街があるのを教えてくれました。なぜこの田舎街にワルドー派の人々が定住したかの経緯は興味深いので、リサーチすることを勧められました。Scronce氏はヴァルデイズの隣りのヒッコリー(Hickory)の出身です。以下はワルドー派の信徒がヴァルデイズにやって来るまでの歴史です。

ヴァルデイズ長老教会

バーク郡にあるヴァルデイズは、1893年にイタリア北部のピエモンテ州(Piedmont)のコッティ・アルプス(Cottian Alps)という地域からの移民によってつくられます。今この街には、アメリカ最大のワルドー派のキリスト教会があります。その教会名は、ワルドー派長老教会(Waldensian Presbyterian Church)として知られています。ヴァルデイズには他に20もの教会があります。後述しますが、ワルドー派の信徒は最初の新教徒(protestant)とか最古の福音派運動(evangelical movement)を始めた人々といわれています。彼らは宗教改革の中心人者であったマルチン・ルター(Martin Luther)よりも以前に福音主義を掲げていたのです。

ワルドー派は、宗教改革以前に西方キリスト教内の禁欲運動(ascetic movement)として始まった教会伝統の信奉者です。元々は12世紀後半にフランスのリヨンの貧者(Poor of Lyon)として知られ、この運動は現在のフランスとイタリア国境付近にあるコッティ・アルプス地域に広がりました。ワルドー派の創立は、1173年頃に財産を手放した裕福な商人ピーター・ワルドー(Peter Waldo)で、彼は「使徒的貧困」(apostolic poverty)が完全なる生き方であると説いて信者を獲得していきます。

当時のカトリック教会の一派であるフランシスコ会(Franciscans)が「使徒的貧困」に異議を唱え、さらに地元の司教の特権を認めなかったのでワルドー派の会衆はフランシスコ会と衝突します。そのため1215年までにワルドー派は異端と宣言され破門されて迫害が始まります。

ピエモンテの復活祭の迫害

教皇インノケンティウス3世(Pope Innocent III)はワルドー派の人々に教会に戻る機会を与えると宣言します。ワルドー派の信徒は教会に戻りますが、「貧しいカトリック教徒」(Poor Catholics)と呼ばれるようになります。教徒の多くは使徒的貧困を信奉し続けたので、その後数世紀にわたって激しい迫害を受けていきます。

最も激しい迫害は1655年4月24日に起こります。この迫害と虐殺はピエモンテの復活祭(Piedmont Easter)として知られるようになります。推定約1,700人のワルドー派信徒や住民が虐殺され、この虐殺はあまりにも残忍であったため、ヨーロッパ全土で憤りを引き起こしたと記録されています。

ヘンリ・アルノー


初期の粛清でピエモンテから追放されたワルドー派の牧師にヘンリ・アルノー(Henri Arnaud)がいました。彼はオランダから帰国し、ロッカピアッタ(Roccapiatta)という街での集会で感動的な訴えを行い、武装抵抗を支持する多数派の支持を獲得します。迫害団体との休戦協定が切れる4月20日に備えワルドー派は戦闘の準備を整えます。

1686年4月9日、ピエモンテを治めていたサヴォイア公(Duke of Savoy)は新たな布告を発し、ワルドー派に対し8日以内に武装を解除し、街を退去するよう命じます。ワルドー派の人々はその後6週間にわたって勇敢に戦いましたが、2,000人のワルドー派が殺害されます。さらに多くの信者がトレント公会議(Council of Trent)のカトリック神学(Catholic theology)を受け入れ改宗します。さらに8,000人が投獄され、その半数以上が意図的に課せられた飢餓または病気により6か月以内に死亡していきます。

Waldesian Church in Italy

しかし、それでも抵抗するワルドー派の人々はヴォードワ人(Vaudois)と呼ばれ、約200人から300人のヴォードワ人が他の領土に逃亡します。翌年にかけてヴォードワ人は、占拠する土地にやって来たカトリック教徒の入植者とのゲリラ戦を開始します。これらのヴォードワ人は「無敵の人たち」(Invincibles)と呼ばれ、サヴォイア公がついに折れて交渉に同意するのです。「無敵の人たち」は、投獄されている仲間を釈放し、ジュネーブ(Geneva)へ安全に移動する権利を勝ちとります。

やがてサヴォイア公は ヴォードワ人に直ちに退去するかカトリックに改宗することを要求します。この布告により、約 2,800人のヴォードワ人がピエモンテからアルプスを越えてジュネーブに向けて出発しますが、そのうち生き残ったのは 2,490人といわれました。

その後、貧困や社会的差別、人種的な偏見によりヴォードワ人は季節労働者としてフランスのリヴィエラ(Riviera)とスイスに移住します。イタリアのワルデンシア渓谷の故郷の土地は、1690年の戦いの終結以来、増え続ける人口で混雑していました。家族の農場は世代を経て分割され、再分割されていたため、将来の世代に受け継ぐ土地はほとんどありませんでした。そこで南米やアメリカなど他の国に土地を求める決定がなされます。

1892年頃、ノースカロライナ州で土地を売り出すことを知ったワルドー派の2人の先遣隊が、入植が可能かを調べるためにやって来ます。土地の広さは10,000エーカーほどで、一人はこの土地は新しい入植地として適しているだろうと考えます。もう一人は、岩が多すぎて肥沃な土壌が不十分でひどい土地であると考えます。実は後者の見方が正しかったのですが、ワルドー派は集団で土地を購入することに決めるのです。

Outdoor Drama, From This Day Forward

1893年、29人のワルドー派入植者からなる小グループが牧師のチャールズ・アルバート・トロン(Dr. Charles Albert Tron)に率いられて、イタリアからノースカロライナの新天地に移住することにします。 彼らはイタリアから鉄道でフランスに渡り、その後蒸気船ザーンダム号(Zaandam)に乗ってニューヨークに向かいます。彼らは故郷の思い出と郷愁を抱きながら、豊かで肥沃な土地での生活を期待します。ニューヨークから列車でノースカロライナへ向かいます。1893年5月29日に目的地のノースカロライナ州に到着します。1893年6月に18人の新しい入植者グループが、1893年8月に別の14人グループが、1893年11月に 161人のグループがバーク郡に到着します。しかし、彼らの豊かな農場と繁栄への夢は、寒い冬と貧しい家屋、岩の多い土壌という現実によって打ち砕かれます。

そうした試練は、彼らの神への強い信仰、勤勉、そして忍耐によってこれらの障害は克服され、ノースカロライナ州にコミュニティが設立されるのです。それが現在のヴァルデイズとなっています。ヴァルデイズでは毎年夏に「今日ここから前進するのだ」(From This Day Forward)という野外劇(outdoor drama)が催されます。ワルドー派の人々の長い迫害や辛い信仰生活、苦難の開拓の歴史を演じる内容です。

ジョン・カルビン

今日の宗教学者は、中世のワルドー派はプロテスタントの原型と見なすことができると説明します。ワルドー派はプロテスタントと歩調を合わせるようになり、やがてカルビン主義(Calvinism)の伝統の一部となります。ヨーロッパでのワルドー派は17世紀にはほぼ消滅して長老派教会(Presbyterian)に吸収されていきます。
(投稿日時 2024年3月7日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ノースカロライナ州・First in Flight

注目

ノースカロライナ州(North Carolina)といえばライト兄弟(Orville and Wilbur Wright) です。1903年、世界で初の有人動力飛行に成功したのがノースカロライナです。ナンバープレートには「First in Flight」と記されています。

License Plate of North Carolina

大西洋岸にあるノースカロライナ州は、周りをヴァジニア州、テネシー州、ジョージア州、そしてサウスカロライナ州に囲まれています。首都はラレイ(Raleigh)、最大の都市はシャーロット(Charlotte)です。チャペルヒル(Chapel Hill)という町には、実に綺麗なノースカロライナ大学(University of North Carolina-Chapel Hill)のキャンパスがあります。どの町も樫の木の緑が豊かです。

Map of North Carolina

ノースカロライナ州には、16世紀半ばに最初のヨーロッパ人探検家が到着するまでに、すでに 35,000人から50,000人の先住民族がいました。主に海岸平野のタカロラ族(Tuscarora)とカトーバ族(Catawba)、アパラチア山脈(Appalachian Mountains)のチェロキー族(Cherokee)が住んでいたと推定されています。1524年にジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ(Giovanni da Verrazzano)によって探検され、1585年には新大陸で最初のイギリス人入植地がロアノーク島(Roanoke Island)に設立されます。ロアノーク島は、1663年にカロライナ州の一部となります。

1650年代にヴァジニア州ジェームスタウン(Jamestown, Varginia)のイギリス植民地からヨーロッパの永住者がノースカロライナ州にやって来ます。また、ペンシルバニア州(Pennsylvania)からシェナンドー渓谷(Shenandoah Valley)を通ってピードモント州(Piedmont)に大きな荷馬車道を通ってやって来た人、ヨーロッパから船で来た人もいました。誰もが土地と厳格な階級や宗教的制限からの自由を切望していました。初期のノースカロライナ人は、さまざまな宗教、国籍、経済的および社会的階級を代表する異質な集団でした。

Black Mountains

イギリス国教会(Anglican Church)は18世紀初頭に法律によって設立され、聖職者や典礼の権威を強調しました。それに抵抗した信徒、例えば長老派(Presbyterians)、クエーカー教徒(Quakers)、モラヴィア派(Moravians)、ルーテル派(Lutherans)、改革派(Reformed)、バプテスト派(Baptists)、メソジスト派(Methodists)、そして少数のユダヤ人らが新大陸にやって来ます。こうした人々の国籍は、イギリス、スコットランド、アイルランド、ウェールズ、スイス、フランス、ドイツに及びます。こうして白人のヨーロッパ系アメリカ人コミュニティは何世紀にもわたって拡大し、21世紀初頭までにノースカロライナ州の人口の4分の3近くに達します。

1830年代後半、現存する最大の原住民集団であるチェロキー族のほとんどがミシシッピ川(Mississippi River)西方の土地に強制移住させられます。この追放は1838年から1839年にかけて起こり、「涙の道」(Trail of Tears)として記録されています。しかし、チェロキー族やその他の先住民族の一部はノースカロライナ州に残り、21世紀初頭までに約10万人のネイティブ・アメリカンが州に住み、ミシシッピ川以東の州では最大の先住民族人口を構成します。

North Carolina Beach

アフリカ系の奴隷は、初期のノースカロライナ州の人口の重要な部分を占めていました。米、藍、タバコ、綿といった労働集約的な作物は、特に1790年代に綿織機が登場してからは、州内での奴隷制度の拡大を促しました。21世紀初頭、アフリカ系アメリカ人は人口の約5分の1を占めていました。

ノースカロライナ州のヒスパニック系(Hispanic)人口は、いまだ少数派ではあるのですが、急速に増加しています。ヒスパニック系コミュニティの規模は、1990年から2000年の間に2 倍以上に増加します。同州に新たに住むヒスパニック系住民の多くは、主に農業や製造業、あるいは州の軍事施設での職を求めてメキシコからやって来た人々です。

1903年12月に,自転車屋をしながら兄弟で研究を続け、弟のオービルが動力機によって12秒間,約37mを飛行しノースカロライナ州沿岸の砂地に突込みます。ただ兄弟が世界初の本当に操縦可能な飛行機を作って飛行に成功したのは,これからさらに2年後のことです。

First in Flight

奴隷労働に基づく18世紀の農業経済は19世紀まで続きました。1861年に連邦から脱退。南北戦争後、脱退命令を破棄して奴隷制を廃止し、1868年に連邦に再加盟します。1940年代にはフォート・ブラッグ(Fort Bragg)を含む全米最大級の軍事施設が置かれ、経済が発展します。農村部の人口が多いのですが、ラレイ・ダーラム(Raleigh-Durham)地域ではハイテク産業が拡大しています。生産物はタバコ、トウモロコシ、そして家具などの製造業が盛んです。ノースカロライナ州の白人と黒人の生活条件の格差は依然として存在しますが、同州ではますます多くのアフリカ系アメリカ人が教育、芸術、スポーツ、ビジネス、政治の分野で重要な地位を獲得しています。

ノースカロライナ州は科学技術の研究開発が非常に盛んなところです。その中心は研究の三角地帯(Research Triangle)と呼ばれるラレイ、ダーラム、チャペルヒル(Chapel Hill)の三つの町です。三つはちょうど三角形のように点在しています。この地域は東部きっての学術や研究エリアで、150もの企業が集中し「東のシリコンバレー」と呼ばれるほど発展しています。

Cape Fear River

農業生産品は鶏卵、豚、牛、牛乳の他にタバコ、大豆が主要なものです。他にも織物、化学工業、電子機器、製紙も知られています。意外なことですが、ノースカロライナ州はカリフォルニア州以外で最大の映画制作を行っている州の1つでもあります。

スポーツも盛んな地です。特に大学バスケットボールとフットボールは全米でも有数です。大学間での競争が激しいことにもよります。デューク大学(Duke University)、ウェイクフォレスト大学(Wake Forest University)、ノースカロライナ州立大学(North Carolina State University)、ノースカロライナ大学が競っています。ノースカロライナ大学は、アメリカで最初に生まれた公立大学としても知られています。

Bald Head Island

ノースカロライナには、「タールのついた踵の州」(Tar Heel State)といって「粘り強い、苦境にもまけない州と人々」という意味のニックネームがついています。1987年に私はチャペルヒルにあるノースカロライナ大学でLDの研究者を訪ねたことがあります。その名前と町並みが印象に残っています。
(投稿日時 2024年3月6日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ネバダ州・The Silver State

注目

ネバダ州(Nevada)のナンバープレートには「The Silver State」とあります。「Home Means Nevada」と印字されたのもあります。西にカリフォルニア州、北にオレゴン州、東にユタ州(Utah)、南にニューメキシコ州に囲まれています。州都はカーソンシティ(Carson City)。最大の街はラスベガス(Las Vegas)となっています。

この地域に人類が定住したのは2万年以上前のことといわれ、先史時代の居住者の証拠である住居跡や岩絵が残っています。初期の居住者はショショーネ族(Shoshone)やパイユート族(Paiute)、ワショー族(Washoe)です。18世紀にはスペインの宣教師が、1820年代には毛皮商人のジョン・フレモント(John C. Fremont)とキット・カーソン(Kit Carson)による大規模な探検と地図作成が行われる前に到着していました。

Map of Nevada

ネバダ人の大多数はヨーロッパ系の祖先を持ち、そのうちの5分の4以上がアメリカ国内で生まれています。ネバダ人のごく一部は、ピレネー(Pyrenean)の故郷から羊飼いとして徴兵されたバスク人(Basques)に祖先をたどります。主にメキシコとキューバ系のヒスパニック系住民が州住民の約4分の1を占め、南東部に集中しています。アフリカ系アメリカ人は主にラスベガスとリノ(Reno)地域に住んでおり、人口の10分の1以下です。パイユート族、ショショーネ族、ワショー族(Washoe)のネイティブ アメリカンはいくつかの居留地に住んでおり、州の人口のほんの一部を占めています。

Valley of Fire State Park


ネバダ州は1848年にメキシコからアメリカに割譲された土地の一部で、ユタ準州(Utah Territory)に含まれました。1859年にヴァジニア・シティ(Virginia City)で豊富な銀鉱脈であるコムストック・ロード(Comstock Lode)が発見されると、入植者が増加します。1861年にネバダ準州となり、1864年にはアメリカ36番目の州となりました。大恐慌の時代にギャンブルが合法化され、近代経済への移行が始まっていきます。フーバー・ダム(Hoover Dam)の建設がネバダ州南部の経済を助けます。伝統的な経済基盤である鉱業と農業は、政府活動や観光業によって影を潜めていきます。

ネバダという名前は、スペイン後で雪がかぶった山々という意味の「Sierra Nevada」から由来すると言われます。北部は砂漠地帯、南部や渓谷と山となっています。ラスベガスの北104キロのところに1951年1月11日に設置されたネバダ核実験場(Nevada Test Site)があります。最後の大気圏内実験は1962年7月、地下核実験は1992年9月となります。この地域は合衆国の中でも最も核爆発回数の多かった場所となります。戦後はしばしば新聞紙上でネバダでの核実験の記事が掲載されたものです。

Lake Mead

ネバダの主産業は合法化されたカジノ(casinos)を代表とする娯楽産業と鉱業です。最大都市はラスベガスで、世界有数のカジノ街として名高いです。また、州西部のリノ(Reno)もカジノの町として知られています。24時間営業のカジノは、合法ギャンブル業界で最も広く知られている側面です。カジノに付随する重要な施設は、高級ホテル、グルメレストラン、ゴルフ コース、ナイトクラブなどのライブエンターテイメントです。

観光とその関連活動は、鉱業、農業、製造業を合わせたよりも多くの収入をもたらし、労働力の5分の2以上を雇用しています。何百万人もの人々がミード湖(Lake Mead)やタホ湖(Lake Tahoe)その他のレクリエーション地域や景勝地を訪れますが、観光の中心は主にネバダ州に特有のカジノというスポットです。

鉱業はネバダ州経済の中で依然として重要な位置を占めています。金の産出は有名で世界第4位となっています。ネバダ州中部の田舎の郡に特有なのは合法売春(legal prostitution)ですが、これらの地域では近年、売春を非合法化する取り組みが高まっています。

Las Vegas

1850年代のカリフォルニア・ゴールドラッシュ(California Gold Rush)で数多い中国人が抗夫としてワショー郡(Washoe County)に入ってきて以来、アジア系アメリカ人が州内に住むようになります。中国人に続いて19世紀後半には日系人が農業労働者としても移住してきます。州を潤していた鉱産資源が底を突き始めると人口流出が深刻となります。州政府は窮余の策として移住者の離婚を認め、定住者の娯楽と産業創出のためにカジノを公認するようになったとあります。

ネバダは乾燥地帯で疫病が少ないため住みやすく、諸税の少なさから都市部での人口増加や企業進出が顕著となっています。主要な宗教グループはモルモン教徒(Mormons)とローマ・カトリック教徒(Roman Catholics)です。プロテスタント(Protestant)にはさまざまな宗派があり、少数のユダヤ人(Jewish)も住んでいます。

州の大半を砂漠が占めており、農業はほとんどみられません。そのため気候は砂漠の影響で夏は乾燥して高温、冬は厳しい寒さが襲います。寒暖の差は合衆国で一番といわれています。
(投稿日時 2024年3月5日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ニューヨーク州・The Empire State

注目

ニューヨーク州(New York)のナンバープレートには「The Empire State」と印字されています。戦後しばらく、世界一高い建物といわれたEmpire State Buildingの影響があるようです。なんでも世界一が好きなアメリカのことです。ニューヨークは確かにそのような風格と内容を備えてはいますが、少々いかつい印象もぬぐえません。

License Plate of New York

ヨーロッパの植民地化以前は、アルゴンキン族(Algonquian)とイロコイ族(Iroquois)がこの地域に住んでいました。1524年、ジョヴァンニ・ヴェラッツァーノ(Giovanni Verrazzano)がニューヨーク湾(New York Bay)にやってきます。1609年に、ヘンリー・ハドソン(Henry Hudson)とサミュエル・ド・シャンプラン(Samuel de Champlain)がニューヨーク湾を探検し、やがてオランダ人らが入植を開始します。1664年、ピーター・スタイヴェサント(Peter Stuyvesant)によってオランダの植民地ニューネザーランド(New Netherland)が作られます。しかし、その後やってきたイギリスに降伏し、ニューヨーク湾を放棄します。そしてニューヨークと改名されます。

オランダ人の上陸

フレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)が起こり、ニューヨーク北部と中部で小競り合いが始まり、この地域におけるイギリスの支配が確立します。アメリカ独立戦争では、タイコンデロガ(Ticonderoga)やサラトガ(Saratoga)など多くの戦いの舞台となります。ベネディクト・アーノルド(Benedict Arnold)によるウェストポイント(West Point)もイギリスへの謀反の舞台となりました。

最終氷河期(Ice Age)の間、後退する氷河が現在のニューヨークの地形を削り出しました。ハドソン川(Hudson River)とモホーク川(Mohawk River)の渓谷の形成により、キャッツキル山脈(Catskill Mountains)とアディロンダック山脈(Adirondack Mountains)を突破するL字型の通路が形成されました。ハドソン川の河口から旅をしていた初期の探検家や入植者は、五大湖やその先へ行くためにこの道をよく利用しました。このルートの大部分を利用して、エリー運河(Erie Canal)が19世紀初頭に建設されました。この運河はハドソン川とエリー湖を結びました。1825年の開港後、貿易が発展し、ニューヨークがアメリカ商業の最前線に立つことになります。

Map of New York

ニューヨークは17世紀初頭のオランダ人入植後、すぐにアメリカ大陸への主要な玄関口になります。1840年代以来、ニューヨーク市はアメリカのるつぼ(melting pot)として膨張し、ヨーロッパ全土から、後にはラテンアメリカ(Latin America)、アジア、アフリカ、その他の世界の地域からの何百万人もの移民にとって機会の場所となってきました。港にあるリバティ島(Liberty Island)には、自由の像(Statue of Liberty)、自由の女神が立っています。

なにを取り上げても話題の尽きない州です。最大の都市はニューヨークですね。州都はニューヨークから300キロも離れた人口10万人足らずのアルバニー(Albany)。ニューヨーク州は正三角形に近い形をしています。ニューヨーク州の境界には五大湖のうちの2つのエリー湖(Lake Erie)とオンタリオ湖(Lake Ontario)があります。カナダのオンタリオ州とケベック州(Quebec)と国境を接し、コネチカット州、ヴァモント州、マサチューセッツ州、ニュージャージー州、そしてとペンシルベニア州と隣接しています。

1800年代後半から1900年代初頭にかけて、エリス島(Ellis Island)は合衆国の主要な移民ステーションとなりました。この島はアッパーニューヨーク湾(Upper New York Bay)にあり、ニューヨーク市の一部であるマンハッタン島の南西約1.6 km、ニュージャージー海岸(New Jersey shore)のすぐ東にあります。

Statue of Liberty


この島は、1770年代に島を所有していたマンハッタンの商人サミュエル・エリス(Samuel Ellis)にちなんで名付けられました。1808年、ニューヨーク州はこの島を連邦政府に売却します。やがて移民センター(immigration center)は1892年に開設されます。それから1924年までの間に1,200万人以上の移民がエリス島に上陸し、そこで医師による検査を受け、入国手続きを受けました。ほとんどの人は入国が許可されますが、重病人や障害者は拒否されました。拒否された移民は祖国に送り返されました。

エリス島は、1924年に移民をより厳しくする法律が議会で可決されると、この島の重要性が低下します。1943年に移民の受付がニューヨーク市本土に移された後も、エリス島は移民問題を抱えた人々の収容所として機能し続けます。やがて1954年にエリス島のセンターは閉鎖されます。この島は1965年に自由の女神国定公園(Statue of Liberty National Monument)の一部となり、1976年に観光客に再開されました。1980年代に政府は島の建物を修復し、現在はエリス島移民博物館(Ellis Island Immigration Museum)となっています。

Ellis Island

今やニューヨークは合衆国50州の中で傑出した地位を占めています。その大都市であり港であるニューヨーク市は、アメリカ最大の都市です。長い間この国の文化的および金融の中心地となるこの街は、新生した国の最初の政治的な首都でした。伝統によれば、1784年、ジョージ・ワシントン(George Washington)が初代大統領としてニューヨーク市に就任する5年前に、ニューヨークを「帝国の本拠地」(seat of empire)として構想し、その結果、エンパイア ステート(Empire State)というニックネームが生まれたとも言われています。

1789年に合衆国が共和制になったとき、ニューヨーク州は人口で州の中で5位にランクされました。 新しい国の初期の数年間、この州は急速に成長し、1820 年の国勢調査では第一位に躍り出ました。ニューヨーク州は1960年代半ばまで人口で州のトップであり続けましたが、その後カリフォルニア州に追い抜かれました。それでも、ニューヨークは全米で最も人口の多い州にランクされており、1年間に生産される商品とサービスの合計額州総生産は、一部の国を除くすべての国を上回っています。

Central Park

ニューヨークの人口のほとんどは都市に集中しています。歴史的に、都市化はエンパイアステートに繁栄だけでなく問題ももたらしました。都市部の混雑した状況により、時には困難な生活環境がもたらされることがあります。現在の社会的不平等に対する州の対応としては、労働者の権利を守る強力な法律、少数派を保護するプログラム、巨額の福祉手当などが挙げられています。

1777年にニューヨークが最初の州憲法を採択し、1797年には州都がニューヨークからアルバニーに移転します。1825年にエリー運河(Erie Canal)が開通し、州西部の開発に拍車がかかります。19世紀にはニューヨーク市でタマニー・ホール(Tammany Hall)という民主党の政治団体の影響力が強まり、票の買収操作による政治腐敗によって市と州との間に緊張が走ったこともあります。かつてはバッファロー(Buffalo)、ロチェスター(Rochester)、シラキュース(Syracuse)など各都市の製造業が経済の中心でありました。現在はニューヨーク市に集中するサービス業が中心となっています。

Niagara Falls


北東部の森林に覆われたアディロンダック(Adirondack)斜面、中央および西部地域のなだらかな丘陵地帯、セントローレンス川(St. Lawrence River)とオンタリオ湖とエリー湖の草原が、州の大部分の田園風景を形成しています。エリー湖からオンタリオ湖に流れるところにナイアガラの滝(Niagara Falls)があります。この辺りはニューヨーク州とカナダのオンタリオ州との国境になっています。19世紀の終わりまで、ニューヨークは国の主要な農業州でありました。乳製品や果物、野菜の生産では依然として上位にランクされていますが、21世紀の州経済ではサービスと製造業が農業をはるかに上回っています。

ニューヨーク市は世界経済、商業、コミュニケーションの中心地です。多くの企業の本社がここにあります。またショービジネスなど娯楽産業の中心でもあります。年間4700万人の観光客が訪れます。国際連合はじめ公共機関も沢山あります。9・11の影響がいまだに続いてはいますが、急速な回復はニューヨークのバイタリティを感じます。公共交通網も張り巡らされ、多くの交通機関は24時間運行となっています。ニューヨーク市のニックネームは「Big Apple」。その由来は、大恐慌時代に失業者が市内でリンゴ売りをしていたとか、ジャズマンが使い始めたとか、1800年代に街には一番美味しい「リンゴ」(隠語で売春婦)がいたという説などです。

Rockefeller Center

ニューヨークではBBQを賞味したいものです。シシカバブ(shish kebab)です。もともとはトルコからの移民がもたらした料理ですが、ニューヨークにもすっかり定着しました。市内にはたくさんのBBQレストランがあります。私にとってのニューヨークですが、私はセントラルパーク(Central Park)を走り、家内はメトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum- Met)へ、院生はミュージカルを楽しんだようです。友人の教員がBBQレストランに連れて行ってくれたのが思い出です。
(投稿日時 2024年3月3日)