ヨーロッパの小国の旅 その五十一 サン・ピエトロ大聖堂

140体の使徒達の像

バチカン宮殿は城壁で囲まれローマ教皇が住むところです。立派な独立国ですから、電信電話制度、郵便制、銀行、薬局などが揃い、宮殿を守る衛兵としてスイス人を雇っています。水道、ガス、電気、食糧などはローマから輸入しています。所得税はなく、輸出入への課税もありません。バチカンの収入は、全世界の10億人以上のカトリック教徒からの献金、投資信託、記念切手や硬貨の発売で賄われています。

ラテラン条約(Lateran Treaty)があります。これはLateran宮殿において、1929年にバチカン市が、ローマ教皇が治める国であり崇高で独立していると認めたイタリアと教皇庁とで結んだ条約です。バチカンは小さい国ながら、世界中の国々に大使館や領事館を置いています。バチカンの多くの住民は、カトリックの僧侶や尼僧、行政職の人や会社人で構成されています。

聖堂内の円形ロタンダ

ルネッサンス期の頃からバチカンの勢いは衰退したといわれます。しかし、何百年間の努力により、バチカンは当時の勢いを甦らせます。その証がシスティーナ礼拝堂(Sistine Chapel)です。特にミケランジェロ(Michelangelo)の活きいきとしたフレスコ画の色の再現に示されます。それを祝ったのが2000年のミレニアム(Millennium)の祝いでした。

バチカン使徒図書館(Vatican Apostolic Library)には、150,000点の資料や160万冊の書籍が保管されています。それらは紀元前からキリスト教初期のものなど貴重な財産です。バチカンは「 L’Osservatore Romano」という日刊新聞も発行しています。教会グルジア語(Ecclesiastical Georgian)からインドのタミル語(Tamil)にいたる30か国語で印刷されたパンフレットを発行しています。テレビ番組も製作し、40か国語による海外ラジオ放送も続けています。1984年にユネスコの世界遺産に登録されます。

ヨーロッパの小国の旅 その五十 バチカンとシスティーナ礼拝堂

Sistine Chapel

ヨーロッパにある小国の代表といえばバチカン市国(Vatican City)の右に出るものはないでしょう。バチカンはローマ市内の一部にあり、国土面積は世界最小です。東京ディズニーランドよりも小さな国です。しかも国の3分の1が庭園という美しい国です。「サン・ピエトロ大聖堂」(St. Peter’s Basilica)が、カトリック教会の総本山として君臨しています。

最後の審判

バチカンの地は古代以来ローマの郊外にあって、人の住む地域ではなかったと記されています。約3000年前には古代の死者の街である「ネクロポリス」(necropolis)、すなわち埋葬地として使用されていました。ローマ人の共同墓地だったようです。326年にコンスタンティヌス1世(Constantine I)によって、殉教した聖ペトロ(St. Peter)の墓所とされたといわれます。そして、この地に最初の教会堂が建てられたのがサン・ピエトロ大聖堂の前身となります。

アダムの創造
アテナイの学堂

ローマ教皇(Pope)はバチカン市国首長であり、その権威と威光は絶大なものです。教皇は80歳未満の枢機卿(Cardinals)たちの選挙で選ばれます。この選挙のことをコンクラーヴェ(Conclave)といいます。選挙の会場は、バチカン宮殿のミケランジェロ(Michelangelo)の「最後の審判」(Last Judgment)で有名なシスティーナ礼拝堂(Sistine Chapel)です。120名から成る枢機卿団 (College of Cardinals)によって行われます。コンクラーヴェでは、投票の結果が判明するたびにシスティーナ礼拝堂の煙突から煙が上がります。決まらなかった時には黒煙、決まったときには白い煙がでます。面白い儀式です。

ヨーロッパの小国の旅 その四十九 リヒテンシュタイン

現在世界で唯一、家名が国名になっているのがリヒテンシュタイン(Principality of Liechtenstein)です。建国は1719年ですから、創設301年を迎えるそうです。リヒテンシュタインは、中央ヨーロッパに位置する立派な立憲君主制国家です。面積は南北に25キロメートル、東西に6キロメートルで、香川県の小豆島とほぼ同じという広さです。周りはスイスとオーストリアに囲まれています。

かつて神聖ローマ皇帝に仕えたリヒテンシュタイン侯爵家が統治しています。昔から侯爵家は代々領地の経営に成功して富を蓄え、皇帝ナポレオンにも貸し付けを行うほどだったということです。フランスとオーストリアの間の度々の領土紛争に巻き込まれた歴史があります。

アルプス(The Alps)に抱かれたこの小さな国土にはライン川(Rhein)が流れています。この国は現在金融業などが盛んで、小さいながら世界屈指の豊かさを誇ります。第二次大戦により領地を失い財政難に陥ります。しかし、長く銀行業を経営してきたノウハウや税制上の優遇措置により、企業の誘致に成功します。今は非武装中立政策をとっています。ですがどのようにして独立を得たかはもっと調べる必要があります。

Liechtenstein Panorama

国土の2/3が山岳地帯でスキーリゾートでも知られています。オリンピックのアルペン種目で優勝者をだすほどです。ヨーロバの最高峰4,808mのモンブラン(Mont Blanc)を背にしています。

ヨーロッパの小国の旅 その四十八 モナコ公国

世界の小さな国について2回目は、イタリア国境に近くのフランス地中海沿岸地方、コートダジュール(cote d’azur)にある「モナコ公国」(Principality of Monaco)です。世界で2番目に小さな国です。面積は東京ディズニーリゾートと同じというのですから面白いです。

モナコ公国は南フランス、イタリアの国境にほど近い地中海に面した高級リゾート地です。首都のモナコ市がそのまま領土になっています。1952年に「真昼の決闘」(High Noon)、1956年の「上流社会」(High Society)で出演し、その美貌で世界中に知られた女優グレース・ケリー(Grace Kelly)が、モナコ大公レーニエ3世(Rainier III)に見初められます。その結婚は世界的なニュースとなりました。

Grace Kelly & Rainier III

モナコの住人は所得税などの税金がかかりません。そのため世界中から多くのセレブが高額な税金を回避するためにこの国に移住してくるのです。いわゆる「タックス・ヘイヴン(tax haven)」です。「タックス・ヘイヴン」とは、一定の課税が著しく軽減、ないしは完全に免除される国や地域のことで租税回避地とも呼ばれます。

Gary Cooper in High Noon

概ねモナコ国籍者は人口の16%で、外国国籍者は、フランス国籍47%、イタリア国籍16%、その他21%となっています。モナコ大聖堂、大公宮殿の近衛兵交代式や、カジノ、歴史博物館なども観光の見所となっています。

ヨーロッパの小国の旅 その四十七 アンドラ公国

これから数回にわたり、ヨーロッパに位置するミニ国家を散策することにします。最初はアンドラ公国(Principality of Andorra)です。この国があまり知られていないのは当然のことです。スペインのカタルニア地方(Catalonia)とフランスに挟まれたピレネー山脈(Pyrenees)の山間に位置し、国土面積は金沢市程度しかない小さな国だからです。

国土が非常に狭く、全て山間部なため、人口はわずか8万人しかいませんが、その人口の3分の2は外国籍でその大半はスペイン人です。スペイン、フランスの国境という立地の結果として、長い間この二つの大国の間を揺れ動き、公国として成立した後も両国は領有権を争い、1993年になってようやく両国の承認も得て正式に国として承認され国連に加盟しました。

他方で外国人、特にヨーロッパ人からの人気は非常に高く、年間1,000万人もの外国人観光客がこの国を訪れます。そのため英語やフランス語も通じます。自然豊かなこの国には昔ながらの町並みを残した中世さながらの村も点在し、カタルーニャ地方の影響を色濃く受けています。かつては産業の中心は農業で成り立っていたこの国は、現在では観光収入が国の財源の大半を支えるようになっています。

ヨーロッパの小国の旅 その四十六 キプロス共和国

地図を見ると地中海の東端、トルコの南、シリアの西に浮かぶのがキプロス島です。世界遺産の遺跡が点在する長い歴史を持つリゾートの島にあるのが、キプロス共和国(Republic of Cyprus)です。首都ニコシア(Nicosia)は、オスマン(Ottoman)トルコからの侵略を防ぐ城壁が残る都市です。世界でただひとつの2つの国に統治される首都という珍しい街です。国連がコントロールする緩衝地帯「グリーンライン」(Green Line)と呼ばれる境界線が街のなかにあるとあります。

キプロスは、長い歴史の中でギリシャ系とトルコ系の住民が住むようになります。四国の半分ほどの小さなこの島が、2つに分断されるきっかけになったのが1970年代のキプロス紛争です。ギリシャ系住民の多い南部キプロスと、分離独立を求めるトルコ系住民との衝突を抑止するために1974年にグリーンラインが引かれ、島の南部はギリシャ系の「キプロス共和国」、北部はトルコ系住民が多く住む「北キプロス・トルコ共和国」に分かれました。

聖ニコラス教会のフレスコ画

1974年に南北分断された後は、キプロス共和国は南部を占め、ギリシャ系住民のみの政府となっています。公用語はギリシア語およびトルコ語です。キプロスは地理的に、古くからヨーロッパと中東を結ぶ海上貿易の拠点として栄えます。紀元前1世紀~12世紀末までのローマ帝国による支配や、16世紀~19世紀にいたるオスマントルコ帝国による支配によって、異なる文化圏を持つ国々に統治されてきます。

キプロス島は長らくイギリスの植民地でありました。独立運動の指導者はマカリオス3世(Makarios III)というキプロス正教会の有名な聖職者です。マカリオス3世は、ギリシャへの統合から独立へと志向を変え、国際連合総会で独立を訴えます。そして1960年にキプロスは独立を果たしマカリオスは初代の大統領となります。マカリオス3世の名は、しばしば報道されたのを私も鮮明に記憶しています。

ヨーロッパの小国の旅 その四十五 大航海時代の幕開け

ポルトガルは、日本人にとってヨーロッパの歴史を学ぶ時には、身近に感じる国です。それは、種子島にポルトガル人によって鉄砲が伝来したこと、ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)という探検家がアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人であることを学ぶからです。このインド航路の開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれたというのですから、ガマの貢献は偉大というしかありません。

ユーラシア大陸最西端にポルトガルは位置します。大河、テージョ川(Tejo)が流れています。その河口に位置するのがポルトガルの首都リスボン(Lisboan)です。この街の歴史は紀元前1000年頃、フェニキア人(Phoenicia)の港が築かれた頃まで遡ります。フェニキア人とはギリシア人による呼称で、地中海方面からメソポタミア、アラビア半島に渡って、海上交易をしていた人々いわれます。ギリシア人は、こうした交易などを目的に東から来た人々をフェニキア人と呼んでいました。当時リスボンはアリス・ウーボ(Alice Ubo)「穏やかな港」と呼ばれていました。

Vasco da Gama

その後のローマ時代、ムーア人(Moor)による支配の時代と、支配者が変わる度に街は名前を変えました。8世紀から400年以上にわたって続いたムーア人の支配から街を解放したのがアフォンソ・エンリケス(Afonso Henriques)です。この時、街の名前がリスボンと定められました。ムーア人といえばこのシリーズの第36回で取り上げた悲劇「Othello」に登場し、妻デズデモーナ(Desdemona)の貞操を疑うヴェニスの軍人を思い出します。

鉄砲伝来

そして15世紀、アフォンソ1世(Afonso I)の頃行われた西アフリカ方面への遠征が大航海時代の始まりというわけです。ガマやフェルナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)、クリストファ・コロンブス(Christopher Columbus)など国籍は違いますが、多くの探検家がこのリスボンで学んだといわれます。

ヨーロッパの小国の旅 その四十四 ポルトガル

歴史的に日本との関係が深いポルトガル(Portugal)へ行ってみましょう。ポルトガルの正式な国名はポルトガル共和国(Portuguese Republic)。ヨーロッパ大陸の西側にあるイベリア半島(Iberian Peninsula)の南西にあり大西洋に面しています。東隣はスペイン(Spain)です。かつてポルトガルは地中海諸国と同盟を結び、ヨーロッパ大陸で地理的にも文化的にも海上帝国として最も栄えた国です。

ポルトガルといえば思い出すのは探検家であり航海者だったヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)です。記憶しやすい名前です。ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した最初のヨーロッパ人と呼ばれています。インドに到達したのは1498年といわれます。さらに1500年には、インドを目指したペドロ・カブラル(Pedro Alvares Cabral)がブラジルを発見し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進んでいきます。

1509年、インドのディーウ(Diu)の近くのアラビア海でオスマン帝国(Ottoman Empire)の海戦が起こり、ポルトガルは勝利してインド洋の制海権を確保します。そしてホルムズ(Holmes)やマラッカ(Melaka)とさらに東進したポルトガル人は、1541年から1543年にかけて日本へもやってきます。鉄砲の伝来です。

ポルトガル人の到来により、交易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が栄えます。当時日本ではポルトガル人を南蛮人と呼んだそうです。1557年には明からマカオ(Macau)の居留権を得ます。マカオを拠点としたポルトガル商人は、中国から生糸などを積み込み、日本に運び、日本の銀と交換する貿易を始めていきます。この貿易は南蛮貿易と呼ばれるようになりました。

ヨーロッパの小国の旅 その四十三 ルクセンブルグの歴史

Encyclopaedia Britannicaを参照してこの稿をまとめています。ルクセンブルクの歴史は、963年にアルデンヌ家(The Ardennes)のジークフロイト伯爵(Siegfried)がこの地にルクセンブルク城を築いたことに始まります。中世には、ルクセンブルク市は「北のジブラルタル」(Gibraltar)と呼ばれ、難攻不落の要塞といわれました。ついでですが、ジブラルタルはイベリア半島(Iberian Peninsula)の突端にある街です。地中海の出入口を抑える戦略的要衝の地で、軍事や海上交通の上で重要視されています。現在はイギリスが領有しています。

1443年にルクセンブルクはフランスのブルゴーニュ公国(Bourgogne)の侵攻を受けて陥落します。そして、ブルゴーニュ領ネーデルラントの一部に組み込まれます。その後、スペイン領やオーストリア領の南ネーデルラントとしてハプスブルク家(Haus Habsburg)の統治下に入ります。この時期にルクセンブルク城は要塞として度々強化され、当時としてはヨーロッパで最も堅固なものとなります。

Luxembourg city, the capital of Grand Duchy of Luxembourg, view of the Old Town and Grund

1867年に永世中立国となり、城砦のほとんどの部分が取り壊されました。第一次世界大戦が勃発すると、中立宣言にもかかわらず1914年ドイツ帝国に占領されます。1940年にナチス・ドイツが侵攻し1942年には第三帝国に完全に併合されますが、1944年に連合軍に解放されます。戦後はルクセンブルクは中立政策を廃止し北大西洋条約機構(NATO)の原加盟国となります。城砦だった城壁や要塞の一部は現在も残っており、旧市街と要塞群はユネスコ世界遺産に登録されています。

ルクセンブルクの人口わずか57万人、面積も神奈川県くらいのヨーロッパの小国です。ルクセンブルクと国境を接するベルギーやドイツ、フランスに比べると、日本ではあまり知られていません。ですがこの小国が、どうやって世界でもトップクラスの豊かな国となったのかです。その最大の要因は、ヨーロッパを代表する金融センターの座を勝ちとったことにあるといわれます。1960年代からルクセンブルクの経済を牽引していた鉄鋼業の不振を受け、ルクセンブルクは金融立国へと舵を切りました。その政策が功を奏し、いまやロンドンに次ぐユーロ市場、ヨーロッパを代表する国際的な金融センターを有するまでに発展したのです。

ルクセンブルクは20年以上連続で一人あたりGDP(国内総生産)が世界一です。つまり一人あたりが稼ぎ出す富は世界一という大国なのです。

ヨーロッパの小国の旅 その四十二 ルクセンブルグ

ベネルクス(Benelux)を構成するのが、ベルギー、オランダ、そしてルクセンブルク(Luxembourg)です。Beneluxとは、それぞれの国名の初めの文字、Be, Ne, Luxから成る頭文字が集合している名称です。3つの国に共通している特徴は、立憲君主制を採用していること、国土が狭いこと、人口密度は非常に高いこと、そして国民生活が豊かであることです。ルクセンブルクの国土は神奈川県くらいの広さ、人口は50万人ほどです。3か国すべてを合わせても面積は隣国ドイツの1/5です。ルクセンブルクは東はドイツ、南はフランス、西はベルギーに囲まれている世界でも最も小さい国です。首都はルクセンブルク(City of Luxembourg)です。

ルクセンブルクの公用語は”Luxembourgish”といわれ、ドイツ語とフランス語が公文書などでも併用されています。宗教はカトリックと少数のプロテスタントで構成されています。ユダヤ教徒やムスリムの人々からも成ります。人口構成ですが、ルクセンブルクの出産率が低いために、労働力となる人口は近隣国からの移民です。ドイツ、フランス、イタリア、ポルトガル人です。170カ国から国外出身者がいるといわれます。住民の46.7%がルクセンブルク国籍を持っていないのも不思議です。多くはルクセンブルクの経済の中心である鉄鋼業や金属工業に従事しています。国民1人当たりの実質国内総生産が世界一というのですから驚きです。労働人口の41%は高等教育を受けていて、2017年6月現在の失業率は6%で、95%の世帯がコンピュータを保有し、97%がインターネットに接続しているのも特記すべきことです。

3か国の緊密な関係についてです。1948年ベネルクス3国間で関税同盟として発足したのがベネルクス経済同盟です。3国間の関税を撤廃して経済的統一体の実現をめざしたものです。経済的統一が発展し資本や労働力の自由化を実現し、やがて1967年に成立する欧州共同体(European Communities: EC)の起源となり、1993年のヨーロッパ連合(European Union:EU)へと発展していきます。