ヨーロッパの小国の旅 その六十一  ジョージアとバラ革命

ジョージア(Republic of Georgia)は東ヨーロッパ、もしくは西アジアに区分されています。首都はトビリシ(Tbilisi)。2015年4月まで日本政府はグルジア(Gruziya)を国名として使用していました。

コーカサス山脈(Caucasus Mountains)の南麓、黒海(Black Sea)の東岸にあたります。北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア(Armenian)、アゼルバイジャン(Azerbaijani)と隣接しています。古来数多くの民族が行き交う交通の要衝でありました。そのため幾度も他民族の侵略に晒されてきました。今日もロシア正教(Russian Orthodox Church)の信仰などの伝統文化を守っています。温暖な気候を利用したワイン醸造の国としても知られています。

私がこの国を知ったのは2009年頃です。イリノイ大学(University of Illinois)の友人がこの国の大学に客員教授として招かれました。彼から電話で「今ジョージアにいる」というのです。私はてっきりアメリ南部のジョージア州からの電話だと思いました。彼からの電話は、かつてグルジア(Gruziya)と呼ばれていた国、ジョージアからでした。

ジョージアをより身近に感じたのは2018年初場所で優勝した栃ノ心です。彼がジョージア出身の力士であることを知ったことでした。その他、旧ソビエト連邦の最高指導者であったヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)の出身地がジョージアです。彼は、1922年から1953年まで共産党第一書記、1941年から1953年まで首相として、絶大な権力を有した独裁政治家です。

ジョージアは、ソビエト連邦の構成国でしたが、ソ連の崩壊とともに1991年に独立します。ロシア連邦など一部の国から国家承認を受けています。ロシア帝国とその後に成立したソビエト連邦の支配が長く続いたために、独立後はロシアとの対立路線をとることが多いといわれます。

ヨーロッパの小国の旅 その六十 モルドバ 

この国もあまり聞き慣れない国です。一体どこにあるのかをすぐには答えられません。以下、Encyclopaedia Britannicaで調べたモルドバ(Republica Moldova)の紹介です。

Large Christian Orthodox Church at the top of hill in Hancu Monastery, Republic of Moldova

東ヨーロッパに位置する共和制国家がモルドバです。内陸国であり、西にルーマニア(Romania)と、他の三方はウクライナ(Ukraine)と国境を接しています。モルドバは以前はベサラビア(Bessarabia)と呼ばれ1812年まではルーマニアの一部でした。その後オスマン・トルコ(Ottoman Empire)に編入され、第一次大戦まではロシア帝国(Russian Empire)の一部となります。やがてルーマニア帝国(Great Romania)に編入され、1940年から41年まではソ連の占領下となります。モルドバ人自治によるソビエト社会主義共和国となり1991年8月のソ連の崩壊により共和国の独立を宣言し、国名をモルドバとします。1992年に国連に加盟します。

Cricova 葡萄農場

1991年の独立以来、モルドバは4つの問題を抱えてきました。第一は地方自治の伝統がなかったために、地方政府が樹立出来ないことです。第二は地方自治の政治が無かったために、ソ連による高度の中央集権化で憲法を制定するのが難しいという問題です。第三は統制経済下にあったために自由経済の考え方が行き渡らないことです。農業も「集団農場」(Collective Farm)での共同経営(State Farm)が行われ、生産物は政府に売却したり組合組織による経営が行われていたからです。土地の個人所有や個人生産によって、生産性の低下や混乱が起こります。

第四は、モルドバの東部にありウクライナ国境に接するドニエストル(Transdniestria)が独立を叫び、1990年には独立戦争を始めます。1992年には停戦が成立し、ロシアの軍隊がドニエストルに治安維持のために駐留しています。ドニエストル地域は、モルドバの電力を供給していて、首都は何度も供給を閉ざされ、そのために国家の建設が滞ってきました。外国からの投資もなく、ヨーロッパで最も貧しい国といわれています。

ヨーロッパの小国の旅 その五十九 スロバキアとロビン・フッド

スロバキア(Slovak Republic)は、前回のスロバニアと国名が似通っていますが、れっきとした別の独立国です。北にはポーランド(Poland)、東にはウクライナ(Ukraine)、南にはハンガリー(Hungary)とオーストリア(Austria)、西にはチェコ(Czech)が位置しています。

首都のブラチスラバ(Bratislava)は、西南国境を縁取るドナウ川(Danube River)の河畔に位置します。ドイツ南部から東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川です。ブラチスラバは中世の城塞などが保存される美しい古都といわれます。

中央ヨーロッパと呼ばれる地域にあるこの国は、さまざまな歴史があるようです。10世紀にスラヴ人(Slavic)の国家であった大モラビア国(Moravia)が滅亡した後は,1,000年近い間ハンガリーの統治下に置かれます。16世紀にオスマン・トルコ(Ottoman Empire)が欧州に進出してくるとブダペスト(Budapest)が陥落してハンガリーの大部分がオスマン帝国に占領されます。そのためハンガリー王国の首都がブラチスラバに移っていた時期もあったようです。

Robin Hood
首都Bratislava

第一次世界大戦後の1918年10月にチェコスロバキア共和国(Republic of Czechoslovakia)として独立します。第二次世界大戦後の共産主義時代には重点的に工業化され,軍需産業や重工業が発展します。1989年11月のビロード革命(Velvet Revolution)後,1993年1月にチェコとの連邦を解消し,スロバキア共和国として独立します。チェコとスロバキアが平和裏に分かれたの形容して「ビロード離婚」(Velvet Divorce)とも呼ばれます。「欧州への回帰」を目標に2004年3月にNATO加盟し、同年5月にEU加盟を果たします。さらに2009年1月からユーロを導入します。

ヨーロッパの小国の旅 その五十八 チェコと「プラハの春」

Vera Caslavska

チェコ(Czech Republic)という国の紹介です。私の年代からすると、チェコというとプラハ(Prague)出身の女子体操選手のベラ・チャスラフスカ(Vera Caslavska)を思い出します。1964年の東京五輪の体操女子で3個、1968年のメキシコ五輪4個の金メダルを獲得するという名選手です。

チェコはもともともはチェコスロバキア(Czechslovakia)と呼ばれていました。長い間共産党政権が続き、ソ連の衛星国のような存在でした。やがてチェコスロバキア国内に共産党の権力独占を非難し,権力を乱用する者の退陣を要求する運動が起こります。1968年6月に改革運動の象徴的な文書といわれた「二千語宣言」が発表されます。

Alexander Dubcek

この宣言は、正式には『労働者,農民,科学者,芸術家,その他すべての人々の二千語宣言』と呼ばれました。70名の各界の有名,無名の知識人の署名を付し,チャスラフスカもこれに署名します。この改革運動は「プラハの春」(Prague Spring)と呼ばれます。このときの指導者は共産党第一書記で、民主化運動の象徴の一人となったアレキサンダー・ドゥプチェク(Alexander Dubcek)です。

ビロード革命

その後、共産党は「正常化体制」といわれて政権を維持します。チャスラフスカは「二千語宣言」への署名撤回を要求されます。彼女はそれを拒否し続けたので、彼女は非常に困難な状況に置かれ続けます。1968年のメキシコ五輪のとき、出国ビザが政府からなかなかおりなかったというエピソードがあります。

1989年11月、ビロード革命(Velvet Revolution)という民主化革命によって共産党体制が崩壊すると、チャスラフスカはチェコ共和国の初代大統領となったヴァクラフ・ハベル(Vaclav Havel)のアドバイザー及びチェコ・日本協会の名誉総裁に就任します。その後はチェコオリンピック委員会の総裁も務めました。

ヨーロッパの小国の旅 その五十七 スロバニア

外交面でも内政面でも日本では余り知られていない国がヨーロッパにあります。その一つがスロバニア(Republic of Slovenia)です。首都は人口29万人のリュブリャナ(Ljubljana)です。中央ヨーロッパの地図を見ますと、大国に挟まれ歴史的にさまざまな変遷を辿ってきたことが伺える国がスロバニアです。

スロバニアは、北はオーストリア(Austria)、東はハンガリー(Hungary)、南はクロアチア(Croatia)、そして西はイタリア(Italy)に隣接しています。かつては20世紀にいたるまでユーゴスラビア(Yugoslavia)の一部であった国です。中世以来、神聖ローマ帝国の皇帝位を保持してきたオーストリアのハプスブルグ(Habsburgs)によって統治されてきました。

1945年にスロバニアは、社会主義体制となったユーゴスラビアに復帰し、ユーゴスラビアの構成国であるスロベニア人民共和国となります。ユーゴスラビアでは戦後一貫して政治・経済の分権化が進められます。それを指導してきたのが、有名な指導者チトー(Josip Broz Tito)です。チトーは1945年 から1963年までユーゴスラビア社会主義連邦共和国の首相となり、その間、スターリン(Joseph-Stalin)と断絶します。

1990年に旧ユーゴ内スロベニア共和国において初の複数政党制による選挙が実施されます。そして1991年6月独立を宣言し2004年にはEU及びNATOに加盟します。スロベニアには、多数を占める政党がなく、中道の右派や左派の諸政党が存在しています。長い間、連立政権が政権を担っているという珍しい国といえます。2004年にはNATO及びEUへ加盟し,2007年より通貨としてユーロを導入しています。

ヨーロッパの小国の旅 その五十六 オーストリア共和国

オーストリア共和国(Federal Republic of Austria)は、中部ヨーロッパの内陸に位置し、南はドイツ(Germany)、イタリア(Italy)とスロベニア(Slovenia)、西はリヒテンシュタイン(Liechtenstein)とスイス(Switzerland)、北はドイツとチェコ(Czech)、東はハンガリー(Hungary)とスロバキア(Slovakia)とに隣接しています。

首都はウィーン(Vienna)。国土の70%がアルプス山脈を擁し、人口は870万人、公用語はドイツ語です。その他クロアチア語、ハンガリー語、スロベニア語も使われます。ヨーロッパで生活水準が非常に高い国といわれます。1995年にEUに加盟し通貨はユーロとなっています。

オーストリアの紀元はローマ帝国時代に遡ることができます。紀元前15世紀頃ケルト王国(Celtic Kingdom)がローマ帝国によって征服されます。ノリクム(Noricum)というローマの支配名が付けられます。これが現在のオーストリアとなった地域です。紀元後788年にはフランク王国(Frankish)のシャルメイン王(King Charlemagne)が. ノリクムを征服しキリスト教を認めます。ハプスブルグ王朝(Habsburg dynasty)の下で、オーストリアはヨーロッパにおける強大な国家となっていきます。1867年にはオーストリア・ハンガリー帝国(Austria-Hungary)という国の名称に替えます。

ですが、オーストリア・ハンガリー帝国は第一次大戦で敗れ滅びます。そしてオーストリア共和国となります。その後、第二次大戦の初期にナチスドイツ(Nazi Germany)に占領されますが1945年に連合国によって解放され、1955年に民主的な憲法を施行し、同年に永世中立を宣言します

EU加盟以降は、同言語・同民族の国家同士でありながら複雑な国際関係が続いてきたドイツとの距離が再び縮まりつつあります。国内でも右派政党の進出などドイツ民族主義の高まりが懸念されています。

ヨーロッパの小国の旅 その五十五 スイス

スイス連邦(Swiss Confederation)の面積は、4.1万平方キロメートルといわれますから九州と同じくらいの広さです。首都はベルン(Bern)、人口は850万人位です。永世中立国(permanent neutrality)として知られるのがスイスです。1815年にオーストリア帝国の首都ウィーン(Vienna)において欧州の列強が参加してウィーン会議(Congress of Vienna)が開かれます。その席でスイスの永世中立が承認されます。

永世中立とは、国際法上ないし国際政治上の概念です。非同盟主義と同じような意味で、平素から戦争にかかわらないよう相対立するいずれの国にも偏しない立場をとることです。他国に対して武力を行使せず、また他国間の戦争にも参加せず、武力行使を義務とする同盟などは締結しないという立場です。他の国に軍事基地を提供することも、同盟条約や集団安全保障条約の当事国となることも許されません。

永世中立のスイスにおける国防の基本戦略は興味ある話題です。敵国に対して、「スイスを侵略することによって得られる利益はあまりありませんよ、もし侵略してもスイス軍の抵抗や国際社会からの非難や制裁による損失の方が大きくなりますよ」 と主張するのです。それによって国際紛争を未然に防ぐというのが戦略なのです。これは「拒否的抑止力」という考え方です。ナチスドイツがスイスを占領しなかったのは、占領しても得るものは少なく、国際社会から非難されることを恐れたのだろうと思われます。

永世中立国は、交戦国からの中立侵犯に対して防衛するために武力を行使することは妨げられません。そのためスイスは国軍として約4,000名の職業軍人と約21万名の予備役から構成されるスイス軍を有しています。隣国のオーストリア(Austria)も1955年に永世中立を宣言しています。

ヨーロッパの小国の旅 その五十四 マルタ

マルタ共和国(Republic of Malta)は、イタリア(Italy)の南側でイタリアのシチリア島(Sicìlia)の少し南に位置しています。地中海の中央にある小さな島国です。日本ではあまり知られてはいませんが、キリスト教徒には忘れられない島です。

首都のヴァレッタ

地図で分かるように、ヨーロッパとアフリカや中東を結ぶ拠点にマルタは位置しています。マルタは昔から戦略上重要な位置にあるということです。それが現れたのが第二次大戦です。マルタ島は連合国側の軍事拠点となっていました。ナチスドイツは、マルタ島に激しい空爆を行います。1942年にイギリスは、戦時下にあったマルタ島の人々に対して勇敢な行為を示したとしてジョージ・クロス(George Cross)を与えます。この勲章は、一般市民が受章できる最高位の章といわれます。

地中海文明最古といわれる遺跡

イギリスが宗主国として1800年から164年間にわたりマルタを統治してきました。戦後、マルタに独立の機運が高まり、1964年に自治を宣言しイギリス連邦(Common Wealth)の一部となり、1974年に完全に独立を果たします。そして2004年にはEUにも加盟します。公用語は英語、通貨はユーロ、首都はバレッタ(Valletta)です。

マルタの人々の特徴は、新約聖書の使徒行伝(Acts of the Apostles)28章で、使徒パウロ(St. Paul, the Apostle)が記述しています。彼は紀元2年に宣教の途中、マルタ島に漂着します。そこでマルタの人々から暖かいもてなしを受けるのです。その影響のせいでしょうか、マルタの人は旅人への暖かさ、親切さ、寛容さで知られているといわれます。

ヨーロッパの小国の旅 その五十三 サンマリノ

サンマリノのエンブレム

サンマリノ共和国(Republic of San Marino)はバチカン市国と同様、イタリアの中に国土を構える国です。イタリア中北部アドリア(Adoriatic)海岸近くのエミリア・ロマーニャ州 (Emilia-Romagna)、マルケ州(Marche )のペーザロ・ウルビーノ県(Pesaro e Urbino)との間に位置しています。面積は約61平方km、これは東京の山手線の内側と同じくらいの広さといわれます。世界で5番目に小さい共和制国家です。

4世紀初め、石工マリヌス(Marino)というキリスト信徒らが、ローマ皇帝による迫害を逃れ、この地に潜伏してキリスト教徒の共同体を作ったという伝説にちなんで「San Marino」が国名となったといわれます。サンマリノは世界最古の独立国家といわれます。1631年にローマ教皇によって独立を承認されて以来、独自の歴史と文化を育んでいます。

Mount Titano

サンマリノ共和国の魅力です。2008年に739mのティターノ山(Mount Titano)にある首都サンマリノの歴史地区を含む55ヘクタールの範囲が、ユネスコ世界文化遺産に登録されました。要塞の塔や城壁、城門、14〜16世紀の修道院など街のあちこちに歴史的に価値の高い史跡が残っているようです。

サンマリノは国民皆保険制度がゆき渡り、高度な医療施設があり傷害や疾病には無料で治療が受けられます。老人介護や生活保護も受けられる国です。

ヨーロッパの小国の旅 その五十二 バチカンとファッシスト

Benito Mussolini

バチカンは第二次世界大戦においてどのような政治的なスタンスを持っていたのがきになります。1922年に政権獲得のクーデターによりファシスト党(Fascist)のベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)がイタリア王国の指導者につきます。国王エマヌエーレ3世(Vittorio Emanuele III)はムッソリーニを首相に指名します。ムッソリーニは権力の集中をはかり、ファシズムによる独裁体制を確立させていきます。

当時のイタリアでは、反ファシズム運動(anti-fascism)は弱体で、かつ分裂し、しかも公の運動はできず新聞やラジオでの報道も禁止されていました。共産主義者は反ファシズム運動に最も積極的で地下組織をつくり、ロシアの支援や金銭を受けていました。しかし、たった7,000人位の党員であり、イタリア全土に反ファシズム運動のプロパガンダを広めるには不十分でした。運動員の中にスパイもいて地下組織を密告する者もいました。新しい反ファシズム組織も時に結成されますが、ファッシスト政権下の秘密警察がそれを弾圧します。

共産主義者の他に、1929年に「正義と自由」(Justice and Freedom)という共和・民主社会主義者の秘密組織が結成されます。それを主導したのはロッセーリ(Carlo Rosselli)です。ロッセーリはやがて、人民共和党軍(People’s Republican Army)を結成します。そしてイタリア国内のみならずフランスやスイスからの支援を受けることになります。

主要な反ファシスト者は投獄されたり、自宅軟禁され、遠隔の島に追いやられ、外国に亡命してイタリアの運動者と接触ができませんでした。ムッソリーニはストライキを禁止し取締りを強化していきます。労働組合との闘争で勝利した企業家には多額の税が課せられます。その他、ファッシスト党の支配下で社会福祉的な企業は営利を認められていました。

ファシズムから中立の立場をとっていたのがローマカトリック教会(Roman Catholic Church)です。ムッソリーニが台頭してきた初期には、カトリック教会はムッソリーニ政権を暗に支持していました。1929年にカトリック教会は、ムッソリーニ政権との間でラテラン条約(Lateran Treaty)を結びます。それによってムッソリーニは「ローマ問題」(Roman Question)に終止符をうち、バチカン市国の独立を認めるのです。ムッソリーニはローマ教皇に、1870年以前から支配してきた島々への多額の補償を行い、イタリア国内での特権を与えていきます。教会での結婚の証明、市民権法、宗教教育と小中学校の設立、カトリック教会団体の自由な活動などです。

誰がために鐘は鳴る

しかし、ムッソリーニは次第にカトリック教会の動きを反ファシズム的と警戒していきます。1931年には躍動していたカトリック教会の青少年組織を封鎖します。それまであったファッシスト政権主導の青少年組織と競合し始めたからです。1930年代に入ると反ファシズム運動は次第に弾圧されていきます。ムッソリーニは、イデオロギーとして協調していた盟邦であったスペインのフランコ政権(Francisco Franco)を応援します。フランコは1936年から1939年までのスペイン内戦(Spanish Civil War) を指揮していました。ムッソリーニはフランコに義勇兵、飛行機、艦艇を提供します。バチカンはファシスト党とは絶えず中立的な立場を維持していきます。