アジアの小国の旅 その七十一 ユダヤ教徒とは

この記事は「シオンとの架け橋」(A Bridge between Zion and Japan)というサイトとBritannicaからの情報を基にしています。外部の人間がユダヤ教について、とやかくいっても理解することは難しいことです。民族や個人の社会的な背景や信仰によるところが大であるからです。教典や教義の解釈もまた違います。ユダヤ人は情報を大切にする民族といわれます。それゆえに何でも質問するので、いろいろな異なる答えが生まれる、という諺もあるほどです。それを示すのが、「3人のユダヤ人が議論すると4つの意見が対立する」という諺です。

全人口の4分の3を占めるユダヤ人は全員がユダヤ教徒で 、残りのアラブ人などはイスラム教(Islami)、ドルーズ教(Druze)、キリスト教徒などに分かれます。まず、ユダヤ教徒は4つの宗派に分かれています。 超正統派は男性なら黒い帽子、黒い上着と全身黒づくめで、女性は髪の毛を隠し、ロングスカートをはく人々です。次ぎに正統派は普通の服装ですが律法を守りユダヤ教を信じる人々です。さらに改革派は民族の伝統や人間の内面を重視し、食事の規定などを放棄する人々です。そして世俗派は宗教にも律法にも関心のない人々です。

映画「十戒」より

ここで「律法」というのは、「ハラハー」(Halakhah)と呼ばれる宗教律法です。ハラハーは、古代から受け入れられてきた慣習,ラビと呼ばれる法学者・賢者の口伝律法といわれます。ユダヤ人の行為規範を指していることです。豚肉を食べないなど、割礼を施すこと、ユダヤ教の食事規定を守り、安息日の土曜日には仕事も料理も洗濯、裁縫もしない、電化製品を使わない、車に乗らない等の事柄です。 超正統派の人々の流儀です。

ある調査によりますと神を信じる人はユダヤ人の71%とあります。 イスラエルの人々が世俗的な人でも神の存在を意識していることです。逆にいいますと、ユダヤ教という宗教を信じない人々が多いのです。そこで「ユダヤ人とは一体誰か」という問いが生まれます。1950年制定の帰還法 (Law of Return)では、ユダヤ人とは「ユダヤ人を母とする者またはユダヤ教徒」と定義しています。すべてのユダヤ人にイスラエル移住の権利を与え、国外のユダヤ教徒がイスラエルに移民することを認める法律です。

シナゴーグ

注目したいことは、「ユダヤ人は全員がユダヤ教徒」という表記です。 ユダヤ教を信じない世俗的な人々も、「ユダヤ教徒」に分類されているのです。このことは、「日本は仏教徒の国である」「日本人は仏教徒である」という表現と似通っています。ほとんどの日本人は特定の宗教を信仰していないといわれます。しかし日本人の習慣や行事に古来の宗教が深く根ざしていることも事実です。

アジアの小国の旅 その七十 パレスティナ自治政府

パレスティナ解放機構(Palestine Liberation Organization: PLO)とは、ヨルダン川西岸地区(West Bank)およびガザ地区(Gaza)を管理するパレスティナ人による自治機関です。パレスティナの独立宣言に基づいてパレスティナを国家として承認している国は137か国あります。日本はPLOを国家承認していないため,パレスティナ自治政府,またはパレスティナ自治区と呼んでいます。ただPLOとは友好関係を維持しています。

ガザ地区

1988年5月にPLOとイスラエルの間で相互に承認しあったことは既に述べました。この歴史的な合意の立役者はPLO議長のアラファト(Ycasir Arafat)です。パレスティナ民族評議会でパレスティナの独立宣言を読み上げ,彼にはパレスティナ〈大統領〉の呼称が与えられました。アメリカが主導する中東和平プロセスのもとで,1993年オスロ合意に基づいて、PLOとイスラエルはパレスティナ暫定自治宣言に調印し、ガザとジェリコ(Jericho)の両地区にパレスティナ暫定自治政府(Palestinian Authority)が樹立されます。

しかし,イスラエルで2001年リクード党のシャロン(Ariel Sharon)政権が登場して以後,オスロ合意による和平交渉は行き詰まります。米国における9.11事件以後イスラエルは一層強硬策に転じ,2002年にはパレスティナに軍事侵攻し、対抗措置としてPLOの過激派による自爆テロも続発します。ブッシュ(George Bush)政権は2003年のイラク戦争後,パレスティナ国家の独立とイスラエルとの共存をめざす工程表を提示しますが、争いの連鎖が再燃し,情勢はむしろ悪化します。

Leader of Palestine Liberation Organization (PLO) Yasser Arafat gestures as he speaks before the United Nations General Assembly on November 13, 1974 in New York. (Photo by AFP)

2004年のアラファト議長の死後,穏健派のアッバス(Mahmoud Abbas)が後任となり,和平交渉の気運が高まります。2005年8月,ガザ地区と西岸地区北部の一部からのイスラエル人入植者の退去が完了します。しかし2006年イスラム原理主義のハマス(Hamas), が総選挙で勝利し,2007年にハマスと穏健派のファタハ(Fatah)の連立政権がいったん成立しますが,内部抗争が続き,連立政権は崩壊します。イスラエルとアメリカはハマスを相手にせず、穏健派のファタハを交渉相手にすると宣言し、軍事面を含む援助を行うという複雑な構図です。

アッバス議長

アジアの小国の旅 その六十九 イスラエルの経済発展

1948年以降、西ヨーロッパや北アメリカから高等教育を受けたり高度な技能を持った大量のユダヤ人がイスラエルに戻ります。こうした人々は移民後、様々な職業に就きますが、高い技能を有する人材バンクの中核として、大学や研究機関、ハイテク企業の設立に携わり、国の経済拡大に尽力し、やがてイスラエルの国内総生産を押し上げていきます。

イスラエルは世界中のユダヤ人からの寄附、西ドイツからのナチスの犯罪に対する補償、アメリカ政府からの多額の援助などによる資産を得ます。こうした資産をもとに、イスラエルはは貸し付けや国内投資、外国投資などに向けるのです。イスラエル政府の経済政策は、国内需要の増大と発展を海外の市場に向けることです。同時にイスラエルにはこうした方針を阻む国内問題があります。それは急激な人口の増加、隣国アラブ諸国からの交易上のボイコット、膨大な軍事費、天然資源の不足、高いインフレ、大量生産を阻む国内の小さな市場などです。

こうした困難にも関わらず、イスラエルは国民の高い生活レベルを維持していきます。工業品の輸出、観光業、世界的な高度な科学技術による製品の輸出がこうした高い国民生活を支えていきます。
しかし、高い国民生活水準はアラブ系の住民には行き渡っていません。未だに貧しい生活をしています。ユダヤ人の二つの派であるアシュケナージとセファーディムの間にも所得の格差があります。

イスラエルは、高度な技術力を背景としたハイテク・情報通信分野及びダイヤモンド産業を中心に経済成長を続けており,基本的には輸出を志向する産業構造となっています。近年,ネゲブ(Negev)付近の排他的経済水域内において,大規模な天然ガス田の開発が進められ,2013年からは一部で生産が開始されています。

アジアの小国の旅 その六十八 イスラエルの政治情勢

イスラエルの3/4はユダヤ人で、残りはイスラム教徒であるアラブのパレスチナ人で構成されています。イスラエルにおける宗教の影響は政治にもかかわっています。ユダヤ人にはアシュケナージ(Ashkenazi)とセファルディ(Sephardi)という二つの民族がいることは既述しました。両者は長い伝統と文化を継承し、そこから政治、経済、社会についての異なる主義や思想を持っています。

一般に、イスラエルではアシュケナージが富裕層であり既存体制の支持者層であるのに対し、セファルディは世俗的で社会の改革を支持する層であり低所得者層を占めているといわれます。この二つの支持層では当然対立が起こり、現在のイスラエルの政界でも起こっています。宗教的に原理主義の立場をとる派と世俗的な考えを政治や日常生活に反映しようとする派との対立です。イスラエルにおける内政上の対立は、この「世俗と宗教の相克」ということにあります。宗教的な価値に基づいた政治体制を要求する勢力が挑戦し、その影響力を拡大しているという現在の政治勢力の姿は、イスラエルとパレスチナ双方に共通して見ることができます。

イスラエル政治の最大の特徴は、単独与党が存在した経験がなく、建国以来常に連立政権であるということです。イスラエルの現政権の基盤はリクード(Likud)という政党です。党首はネタニヤフ(Benjamin Netanyahu)で、労働党と並ぶ二大政党として2005年から政権を担当しています。この政党は領土拡張を強硬的に主張する保守派です。ガザ地区でのイスラムの原理主義で過激派ハマス(Hamas)の台頭に対して敵愾心を強めています。

Benjamin Netanyahu

リクードはイギリスがパレスチナの範囲をヨルダン川西岸に限定したことに反発し、「大イスラエル」を実現させること主張しています。パレスチナ被占領地–ヨルダン川西岸における入植地拡大、対イラン制裁などを党の方針としています。

アジアの小国の旅 その六十七 イスラエルとシオニズム

イスラエル(State of Israel)を小国と呼ぶには大いにためらうのですが、国土の面積が日本の四国程度の大きさなのです。そのようなわけで小国と呼んでおきます。人口は890万人くらいです。この国ほど建国にいたる歴史において劇的な経過を辿った国は他にないだろうと思われます。このようなイスラエルの歴史を数回にわたり取り上げます。

地中海沿岸の東に位置するイスラエルは、北東にシリア(Syria)、南東にヨルダン(Jordan)、南西にエジプト(Egypt)と面しています。首都はエルサレム(Jerusalem)であるとイスラエルは主張していますが、各国からは広い支持を得てはいません。

イスラエルは、ユダヤ人(Jewish)によって作られた歴史的には若い国です。しかし、その建国に至る歴史は旧約聖書時代に遡るほど古いものです。イスラエルの国土は、もとはローマ帝国(Roman Empire)の一部であり、その後はビザンチン帝国(Byzantine Empire)の領土となります。7世紀にはイスラム帝国 (Islamic Caliphate)によって征服されます。 十字軍(Crusades)が派遣されてくる頃、この地域はパレスチナ(Palestine)と呼ばれるようになります。そしてオスマン帝国(Ottoman Empire)の支配が第一次大戦まで続きます。大戦後は世界連盟(League of Nations)の決議でイギリスの占領統治下に入ります。イギリスはユダヤ人の民族郷土建設の考え方を支持していきます。

その施策を進めたのが初代高等弁務官(High Commissioner)でユダヤ系イギリス人のハーバート・サミュエル(Herbert Samuel)です。ユダヤ人はパレスチナへの移民を進め、ユダヤ機関を設置したり自警組織を結成し、ヘブライ大学(Hebrew University of Jerusalem)の開校などを進めるのです。これはユダヤ人の国家建設に向けての運動でありました。

アジアの小国の旅 その六十六 レバノン

地中海(Mediterranean Sea)の東岸に位置する現在のレバノン(Lebanese Republic)は、古代はフェニキア人(Phoenician)の定住地でありました。フェニキア人とは、東地中海岸で紀元前13世紀ごろから海上貿易に活躍したセム語族(Semites)の人々です。セム語族の起源は、旧約聖書創世記(Genesis)5章の大洪水と箱舟(Noah’s Ark)に登場するノア(Noah)の3人の息子の1人であるシェム(Shem)から由来するといわれます。

レバノンの歴史ですが、古代はフェニキア人が住んでいたティロ(Tyre)、シドン(Sidon)、バイブロス(Byblos)という港街が紀元前3世紀頃に栄え文化や貿易の中心となっていました。フェニキア人は、レバノンから地中海を渡り、現チュニジア(Tunisia)のカルタゴ(Carthage)、バルセロナ(Barcelona)、リスボン(Lisbon)、マルセイユ(Marseille)など各地に植民地を形成した民族です。

1920年代になるとフランスが進出しキリスト教を持ち込み、その後押しでレバノン王国をつくります。1926年にレバノン共和国として成立し、1943年に独立を遂げます。レバノンは宗教や民族の多様性で隆盛していくのですが、内政や外交、経済では大きな問題を抱えていきます。特にイスラエル(Israel)やアラブ(Arab)諸国との関係、そして国内に住む多数のパレスチナ(Palestinian)難民です。

国内では、多数の政党間の微妙なバランスは、パレスチナ問題や宗教的な対立で次第に崩れていきます。それが顕在化したのが1975年に起こった内戦です。政治組織は分解していきます。1990年に内戦が終結すると、レバノンは社会的、経済的にも安定していきます。にもかかわらず他国による干渉や介入、政党間の抗争が今も続いています。

アジアの小国の旅 その六十五 中東ー三大陸の接点

中東(Middle East)とか近東(Near East)という用語の使い方は第二次大戦で始まったといわれます。イギリス軍がエジプトの統治の際に使った用語が中東です。

20世紀の中頃までは、中東とはトルコ(Turkey), キプロス(Cyprus), シリア(Syria),レバノン (Lebanon),イラク (Iraq),イラン (Iran),イスラエル (Israel), ヨルダン川西岸(West Bank), ガザ地区(Gaza Strip),パレスチナ(Palestine), ヨルダン (Jordan), エジプト(Egypt),スーダン (Sudan),リビア (Libya)を指していました。

さらに国名が続きます。サウジアラビア(Saudi Arabia)、クウェート(Kuwait)、イェーメン(Yemen)、オマーン(Oman)、バーレン(Bahrain)、カタール(Qatar)、今のアラブ首長国連邦(United Arab Emirates)等も含むような使い方をします。こうした曖昧な概念の定義によって、中東は北アフリカの国々を含むようにもなります。すなわちチュニジア(Tunisia)、アルジェリア(Algeria)、リビア(Lybia)、モロッコ(Morocco)の国々です。

中東は、地理的にはヨーロッパ、アフリカ、アジアの三大陸の接点にあたります。東西文明が行き交い、交易や人々の交流の役割を果たしてきました。また近代から現代にかけて、特に1938年頃から本格的にサウジアラビアやクウェートで石油が産出されます。湾岸各国は油を採掘する技術は持っていなかったので、メジャーと呼ばれる国際石油資本によって油田は採掘されます。メジャーは石油の採掘から販売まで一貫して操業する大手の石油会社です。この石油の産出により、中東は第二次大戦により軍事的にも経済的にも重要な一帯となるのです。

アジアの小国の旅 その六十四 中東とか中近東の歴史

今回から「アジアの小国の旅」というテーマで稿を進めてまいります。中東(Middle East)から始めていきます。中東という言葉と接するとなんとなく「イスラム教の国々」という印象を受けます。確かにその通りなのですが、中東とは、地中海沿岸国(Mediterranean Sea)やモロッコ(Morocco)やアラビア半島(Arabian Peninsula) 、イラン(Iran)などの国々を指すようになっています。

中東とは西アジアとアフリカ北東部の総称です。こうした中東の中心のあたりの地域をヨーロッパの地理学者や歴史学者が近東(Near East)と呼ぶようになりました。こうした学者によれば、東方諸国(オリエント:Orient)とは、三つにまたがる地域であると主張します。第一は地中海からペルシャ湾(Persian Gulf)に至る地域、第二はペルシャ湾から東南アジアに至る地域、そして日本を含む太平洋に面した地域というのです。

Jordan, Wadi Rum, camel caravan in the Unesco World heritage site in Middle East

オリエントというと、第一にエジプト(Egypt)、メソポタミア(Mesopotamia)を中心とする小アジア・西南アジア・北アフリカの地域です。通常、世界最古の文明発生地一帯をオリエントと呼ばれます。第二はアジアの総称で特に東アジアを指すことです。どちらもラテン語の「Oriens」という日の出を意味する単語、すなわち東方に由来するといわれます。

バグダッドを臨む

中東は、19世紀以降にイギリスなどがインド以西の地域を植民地化するために使われた概念といわれます。もともとは、イランやアフガニスタン(Afghanistan)およびその周辺を指しました。中東に含まれる地中海沿岸地域は近東と呼ばれました。しかし、中東と近東の概念を混同した中近東という概念も使われるようになります。ただし、中東、近東、中近東の違いは明確ではありません。このような地域の区分は第二次世界大戦中にイギリス軍が始めて使ったといわれます。

ヨーロッパの小国の旅 その六十三 アルメニア

アララト山と葡萄畑

「ヨーロッパの小国の旅」の最後の稿です。アルメニア(Republic of Armenia)は、南コーカサス(Transcaucasia)に位置する共和制国家です。東ヨーロッパに含められることもあります。首都はエレバン(Yerevan)で、黒海(Black Sea)とカスピ海 (Caspian Sea)の間にある内陸国です。西にトルコ(Turkey)、北にジョージア(Georgia)、東にアゼルバイジャン(Azerbaijan)、南にイラン(Iran)とアゼルバイジャンの飛び地(Exclave)、ナヒチェヴァン(Naxçıvan)自治共和国と接します。

タテフ修道院

アルメニアもまた近隣の国々と同時に長い歴史を有しています。この稿では現代史に限定することにします。1918年にロシア帝国(Russian Empire)から独立します。1920年にはトルコとロシアによって侵略されます。その年の9月にソビエト–アルメニア共和国が樹立されます。1922年になるとコーカサス-ソビエト社会主義共和国となります。1936年にはアルメニアはソビエト連邦に併合され、長い間ソ連の統治化に置かれます。

ノラヴァンク修道院教会

1991年にソ連保守派のクーデターが失敗したため、同年9月にアルメニア社会主義ソビエト共和国は「アルメニア共和国」として独立します。同年12月25日付でソ連邦は解体・消滅し、アルメニアは晴れて独立国家となります。

アルメニアは内陸に位置し山岳地帯に囲まれています。国の平均海抜は1800mです。火山地帯にあり、これまで大地震に襲われてきました。1988年12月に起きた地震では約25,000人が犠牲となるほどの規模でした。

ヨーロッパの小国の旅 その六十二 アゼルバイジャン

アゼルバイジャン(Republic of Azerbaijan )は、カスピ海(Caspian Sea)と南コーカサス(Transcaucasia)に位置する共和制国家です。南はイラン(Iran)とアルメニア(Armenia)、北西はジョージア(Georgia)とロシアに隣接しています。首都は、古代都市でも有名なカスピ海に面する港湾都市のバク(Baku)です。

アゼルバイジャンは1918年から1920年まで独立した国家でした。しかし、ソビエト連邦に併合され1936年にはソ連の連邦国(constituent republic)となります。ソ連邦の解体により1989年9月に共和国を宣言し1991年8月に完全に独立します。

アゼルバイジャンは、工業と農業が盛んな国です。特に石油と天然ガスが豊富な国です。石油製品,鉄鉱も生産しています。バクー油田が有名で、ソ連崩壊やアルメニアとの紛争で落ち込んだ経済を支えています。天然資源を巡る問題は、第二次世界大戦やチェチェン紛争とアゼルバイジャンの関係とも大きくかかわってきました。軽工業、食品工業なども盛んです。チェチェン(Chechen)紛争とは1999年に勃発したロシア連邦からの独立派勢力とロシア連邦への残留を希望するチェチェン人勢力との間で発生した紛争です。

アゼルバイジャンは、1997年に脱ロシア志向のウクライナ、ジョージア(グルジア)、モルドバとの4カ国(GUAM)による民主主義と経済発展を目指す国際機関を結成しています。