「I Have a Dream」からの感動を

今年最後のブログの記事となります。とりとめもなく書き綴ったものが多い中で少々感慨にふけると時もあります。それは考えることと書くことの葛藤です。話題はそろそろ尽きているのですが、図書館への道すがらの一時の思考、新聞記事の話題などからふと書きたくなることが浮かぶのです。それに関連した経験を混じえて考えると文章がなぜか沸いてくるのです。

話題は変わります。教会での礼拝に参加し説教を聴いた人々もおられるでしょう。説教を作り上げるのに牧師や神父は、テーマに沿った聖書の箇所を何度も読み、その意味を考え、ときに他の講解を調べ15分〜20分の説教に仕上げます。そこには大事な修辞という技法が埋め込まれます。説教は毎週の仕事とはいえ、いかに会衆に訴えかけるかで全神経を注ぐのではないかと察します。それ故に、会衆を前にして語りかける時は、なににも代え難い誇らしげな瞬間だろうとも察するのです。

ギリシアやローマ時代から修辞学(Rhetoric)という学問領域がありました。それほど文章やスピーチなどに豊かな表現を加えるのが難しくも大事であるか人々は知っていたのです。修辞学は一連の技法のことを極める分野です。反語、比喩、引喩、倒置、体言止め、パラレリズム(対句)、首句反復、畳句、時間、押韻などさまざまです。

修辞の傑作という高い評価を広く受けているマーチン・ルーサー・キング牧師(Dr. Martin Luther King Jr.)の公民権運動における演説、「I Have a Dream」があります。この演説草稿はバプテスト教会の説教の形式に沿って作られています。それは、聖書の部分を引用し、それを講解しながら、現代的な問題の解決に示唆を与えようとすることに現れていることです。聖書への深い理解と洞察、そして人間社会の困難さや苦悩へのがあってはじめて会衆の琴線に触れる演説や説教ができるのだろうと推察できます。

演説の中での聖句の引用は、演説を際立てます。キング牧師は、例えば旧約聖書、詩篇30章5節(Psalm 30:5)を引喩しながら、奴隷の廃止に関して訴えます。

まことに怒りはつかの間。いのちは恩寵のうちにある。
  夕暮れには涙が宿っていても、朝明けには喜びの叫びがある。

このように虐げられていた者を鼓舞するのです。演説では引用が続きます。

      我々は満足しない、公義の水のように、
    正義をいつもの水の流れる川のように流れさせるまでは。

これはアモス書5章24節(Amos 5:24)からの引喩です。こうした引喩によって人種差別からの解放を強烈に訴えるのです。

キング牧師の演説はさらに続きます。師は次のようイザヤ書40章3-5節を引用します。

     呼びかける声がある。
     主のために、荒れ野に道を備え、我々の神のために、荒れ地に広い道を通せ。
       あらゆる谷間が高く持ち上げられ、あらゆる丘や山々は平らかにされる。
       荒地は平原となり、くねくねした所は真っ直ぐにされる。
       主の栄光が顕され、人々はそれを仰ぎ見る。

このように演説の中に旧約聖書の引喩が多い理由は、長きにわたる捕囚の民、イスラエル人が解放され独立を宣言する過程が黒人の奴隷解放や公民権の回復と重なるからです。こうした過去と現在、イスラエルの民と黒人の対比によって、運動が正当であり正義にかなうのだと訴えるのです。

「I Have a Dream」とは、なんとわかりやすく味わい深いタイトルと文章なのでしょうか。

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