日本にやって来て活躍した外国人 その三十五 魯迅 その1

このブログのタイトル「日本にやって来て活躍した外国人」にそうかどうか心配ではありますが、中国の偉大な作家、魯迅を取り上げます。中国で最も早く西洋の技法を用いて小説を書いた作家で、その作品は日本や中国だけでなく、東アジアでも広く愛読されています。

仙台医学専門学校時代の魯迅

魯迅が生まれたときは、大清国の崩壊していった時代です。清国は古来から対朝鮮関係で占めていた特権的地位を失い、西欧列強や日本に領土を割譲し、賠償金を支払います。これは中国の識者に与えた衝撃は大きく、自国の体制を内部から考え直す視点に立つようになります。魯迅の父は将来息子の一人は西洋へ、一人は日本へやって学問をさせようとします。科挙しか眼中になかった当時の識者の間に変革の気運が起きるのです。

1902年に魯迅は、鉱路学堂という学校の同期生とともに官費留学生として日本に留学します。最初、東京の弘文学院という清国留学生に日本語と普通教育を授けるために設けられた学校に入ります。この学校は、東京高等師範学校校長であった嘉納治五郎が中国人留学生の速成教育のために設けた学校です。魯迅はこの学校の普通科で2年間、日本語のほか算数、理科、地理、歴史などの教育を受けます。

藤野厳九郎教授

1904年9月、魯迅は国費留学生として仙台医学専門学校、現在の東北大学医学部に入学します。無試験で授業料は免除されました。医学専門学校は全国に5校ありましたが、仙台を選んだのは、「中国留学生のいない学校に行きたい」という理由だったようです。特に解剖学の藤野厳九郎教授は魯迅を丁寧に指導したようです。医学を専攻しながら、同時に西洋の文学や哲学にも心惹かれていきます。ニーチェ(Friedrich W. Nietzsche)、ダーウィン(Charles R. Darwin) のみならず、ゴーゴリ(Nikolai Gogol)、チェーホフ(Anton Chekhov)などロシアの小説を読み、後の生涯に大きな影響を与えていきます。

仙台医学専門学校

仙台医学専門学校留学時代の魯迅と藤野厳九郎の関係は、魯迅の短編小説「藤野先生」により伺い知ることができます。仙台医学専門学校の課目は解剖学・組織学・生理学・化学・物理学・倫理学・ドイツ語・体操などで、藤野厳九郎は解剖学を担当していました。藤野厳九郎は教育者として厳しく真面目でした。他方で魯迅のノート添削に丁寧に対応していました。魯迅は、1904年9月から1906年3月までの約1年半しか仙台にいませんでした。