ヨーロッパの小国の旅 その二十三 ユーゴスラビアとチトー

私には、セルビアという国名よりも「ユーゴスラビア」のほうが親しみがあります。この理由はなんといっても強力な指導者であったチトー(Josip Broz Tito)という人の存在があります。丁度冷戦の時代、新聞やラジオで彼の名前はしばしば登場していました。そこにアジア、アフリカの第三世界と呼ばれた国々の指導者、たとえばエジプトのエジプトのナセル大統領(Gamal Abdel Nasser)、インドのネール首相(Jawaharlal Nehru)らが現れ、冷戦の緩和に役割を果たしていく頃です。

Kalemegdan Castle, Belgrade

チトーが登場したのは、1941年から1945年にわたりナチスドイツなど枢軸国(Axis units)と戦った人民解放軍(パルチザン:Partizan)の総司令官を務めたときです。その間、民主的な臨時政府の設立を宣言するのです。ドイツの敗戦により、チトーはユーゴスラビア社会主義連邦共和国首相兼国防相に就任します。1946年1月、新しい憲法によって、6つの構成共和国が定められ、ユーゴスラビア連邦が誕生します。その初代首相に選ばれるのです。6つの構成国とは、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツゴビナ、クロアチア、スロバニア、そして北マケドニアです。

チトーは、ソ連からの自立を意図し距離を置いていきます。そのため、ソ連によるユーゴスラビアの衛星国化を目指していたスターリン(Joseph Stalin)はユーゴスラビア社会主義連邦共和国を「共産党・労働者党情報局」、別名コミンフォルム(Comin form)から除名します。その後、チトーはソ連型社会主義と対峙し続け、1948年にはスターリンと断絶し、独自の政治路線を敷いていきます。チトーは1953年から1980年まで大統領を務めます。その間、企業における労働者による自主管理によって資本は労働者所有となり、経営者は労働者が選ぶとか、各共和国に大幅な自治権を与えるといったユーゴ独自の自主管理社会主義を建設していきます。これがチトー主義(Titoism)と呼ばれる考えです。

チトーは国内では新聞などによる体制批判を認め、言論の自由をある程度認めるのです。国内のインフラ整備を推し進めて、年率6%の経済成長を達成していきます。医療費はすべて無料とし、識字率は91%まで向上させるのに貢献したといわれる指導者でした。「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」という多様性を内包する国を治めるのは容易なことではなかったと思われます。

Ivan Osim

チトーが大統領になっていた時には大きな民族問題が起こることはなく、1984年のサラエボ(Sarajevo)オリンピックが終わるまでは共和国体制を維持することができます。これもチトーのカリスマによって成り立っていたといわれます。1991年にユーゴスラビア紛争が勃発し血みどろの内戦に突入します。