ヨーロッパの小国の旅 その二十一 コソボと紛争

コソボ(Kosovo)という国は、1990年代に新聞やテレビで内戦の悲惨な状況が報道された国です。「ヨーロッパの火薬庫」という代名詞のいわば中心ともいえる国です。人々の苦悩が詰まった国の一つといえるでしょう。小国が「ひしめく」バルカン(Balcan)半島の歴史は、島国にはない紛争と戦-いくさの歴史のような印象を受けます。

コソボは、バルカン半島にある小さな領土の国です。2008年に独立を宣言し、アメリカやヨーロッパ諸国はそれを認めるのですが、ロシアや中国、さらにEU諸国の一部、たとえばスペイン、セルビア(Serbia)、ギリシャやモンテネグロ(Montenegro)は独立を認めていません。2010年に国際司法裁判所(International Court of Justice)はコソボの主権を認める判決をだします。しかし、国際連合(UN)の安全保障理事会常任国であるロシアや中国の反対で国連への加盟は果たしていません。

コソボという呼び名は、セルビアで使われる「黒鳥の住む草原」(Field of Blackbirds)に由来します。中世期までセルビア帝国の支配にありましたが、コソボは15世紀中期から20世紀の初頭までオスマン帝国の支配下にありました。こうしてイスラム圏の拡大により、アルバニア人の人口が増えます。20世紀前半よりコソボはセルビアの一部となり、その後ユーゴスロバニア(Yugoslavia)に編入されます。イスラム教徒は東方正教会の人口を上回り、しばしば民族間の緊張が高まります。

コソボでは1991年、コソボ共和国としてユーゴスラビア連邦共和国からの独立を宣言します。ですが国際社会からはコソボは独立国と見なされず、ユーゴスラビア連邦の一自治州と見なされました。1998年にアルバニア人で結成された「コソボ解放軍」が反乱を起こし、コソボ紛争と呼ばれる内線に突入します。北大西洋条約機構(NATO)が介入しセルビア地区の空爆が実施され、セルビアによる統治はコソボから排除されていきます。

1999年のコソボ紛争後に採択された国連安全保障理事会決議にもとづきセルビア人部隊はコソボから撤退し、代わって国連コソボ暫定統治機構(UN Interim Administration Mission in Kosovo: UNMIK)の暫定統治下に入ります。2008年2月にコソボ自治州議会はセルビアからの独立宣言を採択し憲法を発布します。しかし、前述のようにロシアや中国が独立を認めず、バルカン半島における民族自決を掲げる少数民族国家、コソボのセルビアからの完全な分離独立は未だに不明な状況です。