日本にやって来て活躍した外国人 その一 西洋言語の到来

この稿からしばらく、日本で活躍した外国人の歴史を取り上げいきます。大勢の外国人が日本にやってきました。こうした人々は高い識見や知識、あるいは東洋に深い関心や興味を持って、何千マイルの彼方からやったきたのは間違いないことです。

こうした外国人は、主として交易や布教などを目的としてやってきたことが伺えます。後に食糧や水の供給、教育の普及を求めてきます。いわば探検家や開拓者のような人々です。

最初に日本にやってきた人々は、主にカトリックの聖職者でした。彼らは、神学校などにおいて哲学や自然科学、医学、工学などを学んでいましたから、当時の日本人、とりわけ大名や武士には、その知識は驚きをもって迎えられたに違いありません。

聖職者らは、数々の献上品を持参していました。その中には親書や聖書、世界地図、地球儀、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、その他小銃など日本には無かった品々が含まれていました。

そしてなによりもポルトガル語、スペイン語、オランダ語、英語などをもたらします。言語は知識を伝播する源となります。日本が文明開化していくのは西洋の言語を学び、さまざまな知識を吸収していく過程といえましょう。

アジアの小国の旅 その九十三 カンボジア

カンボジア(Kingdom of Cambodia)の話題です。南はタイランド湾(Thailand Bay)に面し、西はタイ、北はラオス(Laos)、東はベトナム(Vietnam)と国境を接します。国民の90%以上が、クメール語(カンボジア語)(Khmer)を話します。首都はプノンペン(Phnom Penh)となっています。

ベトナム戦争が北の勝利で終結することが間近となった1975年4月17日、カンボジアではクメール共和国が打倒され、民主カンプチアを樹立した政治勢力のクメール・ルージュ(Khmer Rouge)が政権につきます。その指導者はポル・ポト(Pol Pot)です。政権はシハヌーク(King Sihanouk)国家元首に推戴するも、実権はポル・ポトが掌握します。1979年までポル・ポト政権は原始共産制の実現を目指すクメール・ルージュの政策により飢餓、疫病、虐殺などで100万人から200万人以上とも言われる死者が出ます。教師、医者、公務員、資本家、芸術家、宗教関係者、その他イデオロギー的に好ましくないとされる階層のほとんどが捕らえられて強制収容所に送られます。

強制収容所の俗称は「Killing Fields」と呼ばれました。正確な犠牲者数は判明しておらず、現在でも国土を掘り起こせば多くの遺体が発掘されるといわれています。トゥール・スレン(Tuol Sleng)という収容所が最も悲惨なところといわれ、今はトゥール・スレン虐殺犯罪博物館(Tuol Sleng Genocide Museum)となっています。

トゥール・スレン収容所跡

1,000以上の寺院があるアンコールワット(Angkor Wat)は平和なたたずまいを見せています。ワットとは寺院にことです。仏教国のカンボジアでなぜ大量虐殺が行われたかは、大国の後ろ盾などがあったことも判明しています。

アジアの小国の旅 その九十二 ミャンマー

ビルマの竪琴

ミャンマー(Republic of the Union of Myanmar)とききますと、私の世代ではビルマ(Burma)がぴんときます。 1885年から続いたビルマという国名は1989年にミャンマーと改名します。首都名も1948年から1989年まではラングーン(Rangoon)でした。1989年にヤンゴン(Yangon)となり、現在の首都はネーピードー(Nay Pyi Taw)となっています。

諸部族割拠時代を経て11世紀半ば頃に最初のビルマ族による統一王朝のパガン王朝(Pagan Kingdom)が成立します。その後、モンゴルの侵入(Mongol invasions)があります。モンゴルが去るとタウングー王朝(Taungoo dynasty)、コンバウン王朝(Konbaung dynasty)が生まれ、1886年にイギリス領インドに編入されます。戦後の1948年1月に民主国家としてビルマが独立します。

1962年3月にネ・ウィン(Ne Win)将軍に率いられたクーデター(coup detat)が起こります。それ以来ミャンマーは軍部によって支配されていきます。ミャンマーは多くの部族を抱え、部族間の対立や内紛が続いています。2015年11月に行われた総選挙アウン・アウン・サン・スー・チー (Aung San Suu Ky)議長率いる National League for Democracy:NLDが大勝し、側近のティン・チョウ(Htin Kyaw)を大統領とする新政権が発足します。スー・チー氏は,国家最高顧問,外務大臣及び大統領府大臣に就任します。

竹山道雄

ミャンマーにおいて約半世紀ぶりに国民の大多数の支持を得て誕生した新政権は,民主化の定着,国民和解,経済発展のための諸施策を遂行します。しかし、依然として軍部の後ろ盾による政権が続きます。2018年8月,ラカイン州(Rakhine)北部における治安拠点への連続襲撃事件が発生します。その後の情勢不安定化により,70万人以上のロヒンギャ(Rohingya)部族の避難民がバングラデシュ(Republic of Bangladesh)に流出します。ミャンマーはロヒンギャ民族の市民権を認めていません。世界中から人権問題として非難されています。スー・チー氏のノーベル平和賞受賞についても疑問が高まっています。

アジアの小国の旅 その九十一 モルドバ

モルドバ(Republica Moldova)は東ヨーロッパに位置する共和制の国です。国土は九州よりやや小さい内陸国であり、西にルーマニア(Romania)と他の三方はウクライナ(Ukraine)と国境を接しています。旧ソビエト連邦を構成していた国家の一つとしてモルドバ-ソビエト社会主義共和国(Moldavian Soviet Socialist Republic)でしたが、1991年のソ連の崩壊によりドニエストル川(Dniester River)西岸地域を領有し独立します。首都はキシニョフ(Chisinau)となっています。

モルドバ人は言語的、文化的にルーマニア人との違いはほとんどなく、歴史的には中世のモルダビア公国以後、トルコとロシアならびソ連、ルーマニアの間で領土の占領・併合が繰り返された地域です。

ソ連が崩壊した際、「モルドバ共和国」として独立を宣言しますが、ニストリア川(Niestria River)沿岸であるウクライナ国境に住む約50万人のロシア系及びウクライナ系住民がこれに反発し、1992年には本格的なトランスニストリア紛争(Transnistria War)という武力紛争に発展します。現在は停戦状態にあります。2014年6月、モルドバとEUとの連合協定が締結され、全ての締約国による批准が完了します。

アジアの小国の旅 その九十 ウズベキスタン

ウズベキスタン(Republic of Uzbekistan)といえば、シルクロード(Silk Road)を思い浮かべます。人口は約220万人の首都のタシュケント(Toshkent)はシルダリヤ川(Syr Darya)の支流であるチルチク川(Chirciq River)の流域に位置する歴史的なオアシス都市といわれます。タシュケントは、ソ連邦の時代から中央アジアの中心都市として発展します。第二次世界大戦後、タシケントに連行された日本人捕虜によって建てられたナボイ劇場(Navoiy Theater)があります。

ウズベキスタンは、13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされます。やがて14世紀末に英雄ティムール(Temuriyla)が現れ、ティムール王朝の建国者となります。中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラム王国です。

ウズベキスタンといえば、シルクロード沿いの古都サマルカンド(Samarkand)です。中国と地中海地域を結んだ古代の交易路シルクロードに関連する史跡で知られています。「砂の場所」という意味のレギスタン広場(Registan)をはじめ、さまざまなイスラム建築の歴史的建造物が残っています。かつての首都サマルカンドは、いろいろな王族たちが住み、ティムール朝は元来が遊牧政権でありながら、盛んな通商活動に支えられて学問、芸術などが花開いたといわれます。サマルカンドの“サマル”とは「人々が出会うこと」、“カンド”は「町」を意味するとWikipediaにはあります。

サマルカンドブルー(Samarkand Blue)と呼ばれる青を基調としたイスラム建築が並ぶ「青の都」として一躍注目されています。市内の壮麗なモスクや建築群はこのティムール王朝以降のものであり、これらは「サマルカンド-文化交差路」として世界遺産にも登録されています。

アジアの小国の旅 その八十九 タジギスタン

タジキスタン(Republic of Tajikistan)は中央アジアに位置する共和制国家です。総面積の93%が高地です。「世界一の山岳国」とも言われます。その象徴が「世界の屋根」と呼ばれる平均標高5000mのパミール高原(Pamir Mountains)とワハーン回廊(Wakhan Valley)です。国の平均標高は3300mといわれます。南にアフガニスタン(Afganistan)、東に中華人民共和国、北にキルギス(Kyrgyz)、西にウズベキスタン(Uzbekistan)と国境を接しています。タジキスタンの人口は約900万人、首都はドウシャンベ(Dushanbe)となっています。

タジギスタンの国民の多くは、タジク人(Tojiki)やウズベク人(Uzbek)で、もともとはアーリア系(Aryan)スキタイ(Skythai)遊牧騎馬民族であったとあります。パミール高原を境とする中国、インド・アフガニスタン、イラン・中東の結節点としての文明の十字路たる地位を確立してきたとあります。

1929年、タジク国と呼ばれていたタジギスタンはウズベク・ソビエト社会主義共和国から分離し、ソビエト連邦構成国のひとつ、タジク・ソビエト社会主義共和国に昇格します。タジク国家は1990年に主権宣言を行い、1991年に国名をタジキスタン共和国に改めます。ソ連の解体にともなって独立を果たします。1992年、タジキスタン共産党系の政府とイスラム系野党反政府勢力との間でタジキスタン内戦が起こります。この内戦で5万人以上の死者を出したといわれます。その影響で国民の生活水準は低下、旧ソ連諸国の中で最貧国といわれます。