心に残る名曲 その三十八 「魔弾の射手」

ウェーバ(Carl Maria von Weber)といえば、我が国では「魔弾の射手(Der Freischütz)」が最も親しまれているように思われます。ドイツの民話を題材とし、魔の潜む深い森や、封建時代の素朴な中にも良き生活を描いたこの作品序曲は特に有名です。その冒頭部分は讃美歌285番「主よ御手もて引かせ給え」として歌われています。

1813年にプラハ歌劇場の芸術監督に就任し、オペラの改革に尽力し、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)の「ドン・ジョヴァンニ(Don Giovanni)」上演以後、低落していた歌劇を再興させたといわれます。

1817年には、ザクセン(Saxony)の宮廷楽長に任命され、ドレスデン(Dresden)歌劇場に移ります。当時宮廷ではイタリア・オペラが主流であったが、ウェーバは自身のドイツ・オペラをひっさげて登場します。結果は成功し、ドイツ・オペラを根付かせることに成功します。作曲家だけでなく、当時最高のピアニストとしてヨーロッパ各地で演奏を行ったとあります。

魔弾の射手が初演されたのは1821年。ベルリンで大反響を呼び、ドイツ国民オペラの金字塔を打ち立てのがこの曲です。後に大作曲家となる多くの人物、例えばワーグナー(Richard Wagner)やベルリオーズ(Louis Hector Berlioz)がこの魔弾の射手を観て作曲家を志したとも言われます。

ともあれ、11歳で初めてオペラを作曲し、魔弾の射手の他に「オベロン(Oberon)」などのオペラのほか、「舞踏への勧誘(Aufforderung zum Tanz)」などの器楽曲も残しています。この曲も日本でも広く演奏されています。指揮棒を初めて用いた作曲家としても知られています。

心に残る名曲 その三十七 「フィンランディア」 Finlandia

フィンランド(Finland)の別名は「スオミ(Suomi)」です。Suomiとはフィンランド語とかフィンランド民族を表す語です。この国の首都はヘルシンキ(Helsinki)。戦後日本が最初のオリンピックに出場したのが1952年にヘルシンキで開かれた第十五回オリンピックです。私がヨーロッパへ最初に行った国もフィンランドでした。

フィンランドは東部のロシアとの国境地方において絶え間ない戦乱に悩まされてきました。17世紀にロシア帝国のピュートル(Pyotr)大帝はフィンランドを幾度もせめたて、女帝のエリザベート(Elizabeth)はロシアの宗主国のもとにフィンランドを別個の国家としたりします。次いでロシア皇帝アレクサンドル1世(Aleksandr I)はフィンランドに侵入し併合します。やがてロシアの宥和政策によりフィンランドは自治を有する大公国として憲法や国会を持つことが許され、フィンランドの民族意識が高まっていきます。

民族意識の高まりを広げた代表はエリアス・リョンロート(Elias Lennrot)の編集する偉大な民族叙事詩「カレワラ(Kalevala)」で、この公刊によって民族精神が高揚されていきます。「Kalevala」とは「英雄の地」の意味です。民間説話からまとめられ、フィンランド語の文学のうち最も重要なもののうちの一つとされます。1917年のロシア帝国からの独立に導くのに多大な刺激を与えた文学作品といわれています。

フィンランドを代表する作曲家といえばシベリウス(Jean Sibelius)でしょう。1892年にカレワラに基づくクレルボ交響曲(Kullervo)や有名な交響詩フィンランディア(Finlandia)を作曲したことで知られています。特にフィンランディアは8曲からなる管弦楽組曲で、その最終曲を改稿して独立させたものが「フィンランドは目覚める」という曲です。フィンランドの国歌は「我等の地」ですが、それに次ぐ第二の愛国歌として広く歌われています。別名は「フィンランディア賛歌(Finlandia-hymni)」とも呼ばれ、文字通り讃美歌としても世界中で歌われています。

シベリウスの作風は、チャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky)、グリーク(Edvard Grieg)、ドヴォルザーク(Antonín Dvorak)などの国民楽派の影響を受けたといわれます。この辺りの事情は私には勉強不足でよく理解しておりません。

心に残る名曲 その三十六 Robert Shaw ChoraleとChanticleerとNorman Luboff Choir

アメリカの合唱団の話題です。ロバート・ショウ合唱団(Robert Shaw Chorale)は、1948年から1965年にアメリカを中心に活躍した男声合唱団です。合唱団が歌うレパートリーはバッハから民謡、そしてブロードウエイ(Broadway)で歌われるミュージカルに至る幅広い曲目です。アメリカ国務省(Department of State)主催の文化交流プログラムによって、ヨーロッパ、中東、南アメリカ、ソビエトなどを演奏旅行しています。

合唱団のメンバーの多くはニューヨークにある世界で最も優秀な音楽大学の中の1つ、ジュリアード音楽院 (Juilliard School)や他の音楽大学の卒業生から選ばれました。統一された声量、パート間の調和、優雅な音質や旋律など絶妙なハーモニーで知られました。

次ぎに、チャンティクリア(Chanticleer)というグループです。サンフランシスコに拠点を置く男声アンサンブル(ensemble)グループです。まるで「声楽のオーケストラ(An Orchestra of Voices)」と呼ばれるほど、深く太い和声の響きにほれぼれとします。

1978年に創立され、12名のカウンターテナー(countertenor)からバス(bass)で構成され、中世ルネッサンスの音楽から宗教曲、民謡まで幅広いレパートリーを持つことで知られています。歌う形式は、ほとんどア・カペラ(a cappella)という伴奏をつけない歌い方です。2008年には、Musical Americaという雑誌で、アメリカで最高のアンサンブルグループとして評価されます。

次ぎにノーマン・ルボフ合唱団(Norman Luboff Choir)の紹介です。ルボフはシカゴ生まれ。やがてノーマン・ルボフ合唱団を創立しその指揮者、編曲家とし活躍します。主に1950年代から1970年代にアメリカを中心に、やがて世界中で演奏会を催します。75のアルバムを出版しますが特にクリスマス歌特集は有名で、1961年にはグラミー賞(Grammy Award)を受賞します。

心に残る名曲 その三十五 「ウ・ボイ(U Boj, U Boj!)」

クロアチア(Croatia)の愛国歌といわれる勇壮な男声合唱曲です。意味は「戦へ、戦へ」。ザイツ (Ivan Zajc) によって1866年に書かれました。作詞はマルコヴィッチ (Franjo Markovic)で、1876年に作曲した歌劇の終幕の一節としても歌われてきました。

クロアチアは、東ヨーロッパ、バルカン(Balkans)半島に位置する共和制の国です。この半島でクロアチアは、西にスロベニア(Slovenia)、北にハンガリー(Hungary)、東にボスニア・ヘルツェゴビナ(Bosnia and Herzegovina)、セルビア(Serbia)と国境を接しています。南はアドリア海(Adriatic Sea)に面し対岸はイタリア、東にモンテネグロ(Montenegro)と接しています。首都はザグレブ(Zagreb)です。

ヨーロッパの火薬庫と呼ばれた、第一次世界大戦勃発の原因も財政問題と関連したバルカン半島の民族問題にありました。1990年代以降にユーゴスラビア(Jugoslavija)紛争が発生します。その端緒、1991年にクロアチアはそれまで連邦を構成していたユーゴスラビア社会主義連邦共和国から独立します。しかし、民族紛争は2001年まで続きます。

ブリタニカ大百科事典によりますと、1991年にクロアチアがユーゴスラビア社会主義連邦共和国から独立する前は、セルビア語(Serbia)と同一の言語だったようです。現在のクロアチア語ではもっぱらラテン文字を使用しています。

前置きが長くなりましたが、「ウ・ボイ(U Boj, u boj!)」はザイツが作曲した歌劇にでてきます。1566年頃にハプスブルク帝国(Habsburgisches Reich)に攻め入るトルコ軍と要塞を守るクロアチア太守をめぐるもので,最後に彼と兵士たちがトルコ軍めがけて突撃する場面で歌われたようです。

心に残る名曲 その三十四  「My Old Kentucky Home」

「アメリカ音楽の父」とか「19世紀の最も優れたソングライター」と呼ばれるのがスティーブン・フォスタ(Stephen Foster)です。「スティーブン」という名前は「ステファン」とか「ステパノ」とも呼ばれます。キリスト教会最初の殉教者がステパノで、石打ちの刑にあったことが使徒行伝6章8節にその記述があります。ちょっとした余談です。

フォスタはペンシルヴァニア州(Pennsylvania)のアテネ(Athens)という小さな町で生まれます。このあたりにはヨーロッパからの移民が定住し、イタリア、スコットランド、アイルランド、ドイツ系の人々がいてフォスタは彼らの歌を聴く機会に恵まれたといわれます。

フォスタが最初に作曲したのは14歳のときです。その曲名は「Tioga Waltz)」、そして発表した曲集は「Open thy Lattic Love」というものです。1844年のことです。フォスタは正式な音楽教育を受けていません。それでもクラリネットやヴァイオリン、ギター、フルート、ピアノなどを弾いていました。作曲活動は、ドイツからきたHenry Kleberという楽譜購入者に師事しています。初期の作品は酒場で歌うような歌をつくります。「Mr & Mrs Brown」というのがそうです。さらにフォスタは教会讃美歌も書きます。「Seek and ye shall find」、「All around is bright and fair, while we work for Jesus」、「Blame not those who weap and sigh」といった曲です。南北戦争に関する曲も書いています。「The Pure, the Bright, the Beautiful」、「Over the River」、「Give Us This Day」、「My wife is a most knowing woman」といった曲です。

フォスタは通常手書きした楽譜をそのまま出版社に渡したようです。出版社はそれをフォスタに戻すとか図書館へ寄贈するのではなく、売り渡してしまったようです。手書きの楽譜は個人のコレクションになったりします。幸いにいくつかの楽譜はアメリカ議会図書館(Library of Congress)に保存されているということです。

一般にフォスタの曲の歌詞や旋律は出版社や演奏家によってアレンジされています。例えば「My Old Kentucky Home」はケンタッキーの州歌となります。「Old Folks at Home」はフロリダ州の歌ともなりました。フォスタ記念財団はこうした変更を承認してきました。フォスタの歌がこうしてさらに広まることになりました。