北海道とスコットランド その14 なぜスコットランド人が日本へ来たのか その1

今回は、スコットランド人が何故日本にやってきたかである。決して偶然のでき事ではなく、そこには理由があるはずである。地味に恵まれているとはいえない耕作地、少ない人口、樹木が育ちにくい丘陵、、そうした風土から多くの冒険家や科学者、冒険家、経済学者が生まれた。そして海外へと渡っていく。だがスコットランドからすれば日本は辺境の地、辺鄙な地であったろうと察する。

スコットランド人は宗教や教育に熱心であった。宗教であるが、スコットランドは伝統的に新教の長老派教会(Presbyterian Church)である。上からの押しつけを嫌い、男女の違いを超えて自分たちで指導者を選ぶいわば草の根的な教会制度である。国王や女王が教会を支配する国教会のイングランドとは大きく異なる。そのため両者の間でたびたび宗教戦争が起こった。

アメリカやオーストラリア、ニュージーランドには、イングランドに抵抗した政治犯が流罪された祖先を有する者が多いといわれる。幸い行き着いた土地は肥沃で自由に満ちていた。それが伝統的に実学を重視するスコットランド人に海外への雄飛や移民への刺激を与えた。スコットランド人の日本への渡航と活躍は、徳川幕府と明治維新前後の歴史にそれが如実に描かれている。

日本とイギリスの関係は1840年のアヘン戦争に遡る。この戦争でイギリスが清朝に勝利し香港を獲得する。その結果に驚く幕府は、1825年に出していた異国船打払令を撤廃することになる。その後、遭難した船に限り補給を認めるという「文化の薪水給与令」を出す。1854年10月には、日英和親条約が調印される。翌1858年8月には日英修好通商条約が結ばれる。これも不平等条約の典型で、例えば関税自主権の制限や治外法権承認など、日本に不利な内容となった。この条約により、長崎英語伝習所が設立され英語通訳である通詞が養成される。

1859年7月、初代駐日公使ラザフォード・オルコック(Rutherford Alcock)により高輪の東禅寺に英国公使館が開設される。その年、ジャーディン・マセソン商会(Jardine Matheson Holdings)の代理人としてスコットランド人のトーマス・グラバー(Thomas Glover)が長崎へ来日し、その後幕末や明治政府と財界とに深く関わることになる。

pccross  Presbyterial Emblemtozenji  東禅寺

北海道とスコットランド その13  スコットランド人と「炎のランナー」

1924年のパリ・オリンピックの陸上競技での出場を目指す二人の青年を描いた映画「炎のランナー」を観た読者も多いだろう。主人公は、実在のスコットランド人である。原題は「Chariots of Fire」で1981年に製作された。

その一人は、スコットランド人で聖職者を目指し、神の教えを伝えようとする青年である。彼の名はエリック・リデル(Eric Liddell)。もう一人はユダヤ人青年で弁護士を志望しているハロルド・エブラハムス(Harald Abrahams)。二人とも俊足をかわれ、オリンピックでは短距離走者として出場する。

リデルは、400メートル予選が始まる日曜日が安息日であるという理由で棄権しようとする。他の種目でメダルを獲得した友人が別な予選枠をリデルに譲る。そしてリデルは見事に優勝する。

やがてリデルは選手生活を辞し、宣教師となって中国での布教活動に従事する。丁度日本が日中戦争に突入する頃である。ところが日本軍の捕虜となってしまう。リデルは収容所で会った宣教師の子供に「敵を赦すことの大切さ」を教える。その少年はやがて、かつての敵国、日本に宣教師として赴任する。中国や日本に宣教師団を送ったのは長老派教会(Presbyterian Church)である。長老派教会の歴史は宗教改革を絡めて後日取り上げる。

この映画が撮られた場所はスコットランドの海岸や田舎である。全英オープンで有名なセント・アンドルーズ(St. Andrews)やスコットランド最古の大学であるセント・アンドルーズ大学(University of St. Andrews)が登場する。ケンブリッジ公爵(Duke of Cambridge)であるウィリアム王子(Prince Williams)とケンブリッジ公爵夫人(Duchess of Cambridge)であるキャサリン(Princess Catherine)も卒業した由緒ある大学といわれる。

133881220393713110452_Scene-from-Chariots-of-Fi-001  Chariots of Fire1e207aca

 

北海道とスコットランド その12  「埴生の宿」

このところ朝ドラ「マッサン」ではイギリスの民謡が流れている。その一つ、「埴生の宿」は耳慣れていて郷愁を湛えている。この歌は日本の唱歌で「楽しきわが家」として紹介されている。作曲したのはイングランド出身のヘンリー・ビショップ(Henry R. Bishop)である。

「埴生の宿」の原名は「Home! Sweet Home!」となっている。「埴生の宿」がなぜ唱歌で「楽しきわが家」という訳題がついたのかはわからない。「楽しきわが家」では元の歌詞の意味が伝わってこない。

埴生の宿も わが宿 玉の装い 羨まじ 、、、、

「埴生の宿」とは,床も畳もなく土間が剥き出しのままの家のことである。誠にもって貧しく粗末な家である。日本も農村は素朴な家が残っている。今は古民家と呼ばれるようだが、生活が農業と一体化していて土と共にある姿が浮かぶ。イギリスもそうだったようだ。

古語では,「たのし」にも「たのもし」にも「富んでいる」、という意味があるそうである。生活が貧しく、家が粗末であっても、家族とともにある生活で心は富む、家庭ほど大切な所はないということが歌われる。Sweetとは「甘い」とか「楽しい」ではなく「優しく包み込んでくれる」という意味である。

Home, home, sweet, sweet home,
   There’s no place like home.

「埴生の宿」の旋律を聞く度に思い起こすのが二つの映画の場面だ。一つは『ビルマの竪琴』である。1946年から数年の間、竹山道雄が執筆した作品である。市川崑が監督し1956年に上映された。竪琴を弾く水島上等兵が主人公である。水島を演じたのは安井昌二である。1985年にも同じ映画が作られた。水島を演じたのは中井貴一である。日本人捕虜がビルマからの帰国を前に、「埴生の宿」を歌う。そこに竪琴を持った仏僧が現れ伴奏を弾く。かつての水島上等兵だ。

「埴生の宿」が歌われたもう一つの映画は、壺井栄作の『二十四の瞳』である。木下恵介が監督し1954年に上映された。小学校の大石先生を演じたのは高峰秀子であった。戦争が終わって教え子が集まり、大石先生を囲む同窓会が開かれる。盲目になった生徒が、かつての12人の友達の写真を見つめながら一人ひとりを指さして大石先生に説明する。戦争の爪痕が皆の心に深く残る。

132861245019013205138 ビルマの竪琴twentyfoureyes66sss 二十四の瞳

北海道とスコットランド その11  スコットランド人の活躍は続く その4 エドモンド・モレル

エドモンド・モレル(Edmund Morel)1876年にお雇い外国人として来日。主として官設鉄道工場の監督(Locomotive Superintendent)などを歴任して、1897年まで在勤したスコットランド人である。スコットランド人は伝統的に職を求めて海外に渡った。中世では傭兵として大陸に渡り現地化した。18、19世紀の移民運動の中で学識と技術を有して海外に進出する。モレルもその一人であった。

明治の初頭、イギリスの駐日公使であったハリー・パークス(Harry Parkes)の推薦によって日本にやってきた。そして工部省に雇われる。その働きを評価され技師長である建築師長に任命される。さらに工部卿であった伊藤博文に近代産業と人材育成の機関作成を趣旨とする意見書を提出している。また大蔵卿であった大隈重信とは協議のうえで、日本の鉄道の線路幅を今の狭軌に定めている。

1872年に日本最初の鉄道は新橋と桜木町の間に造られた。枕木はもともと鉄製にする予定であったが、森林資源の豊富な日本の木材を使うことにしたのもモレルである。さすがに線路と機関車はイギリスから輸入した。このように国内の天然資源を活用することによって、産業の育成に貢献することになったといわれる。鉄道関係の技術者の養成にも熱心だったという。

モレルは来日前から結核で苦しんでいたといわれる。最初の鉄道開通記念行事の後、間もなく彼は横浜で亡くなる。中区山手にある外国人墓地内はモレルの墓所となっている。桜木町駅近くにはモレルを記念した「モレルの碑」が「鉄道発祥記念碑」とともに設置されている。新橋日比谷口に蒸気機関車が展示されているのもモレルを記念するからである。「日本の鉄道の恩人」と賛えられている。

こうしたスコットランドの技術者から薫陶を受けた弟子らがやがてスコットランドに留学し、世界最新の技術を誇った機械、造船、鉄道、電信、土木などの科学技術を習得し、その後の日本の近代化に貢献していく。

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北海道とスコットランド その10  スコットランド人の活躍は続く その3 ヘンリー・フォールズ

明治政府が外国人を雇い入れた中で多い職業が医師である。西洋医学の採用によって医療技術者を養成しようとしたことは誰もが得心できる。ヘンリー・フォールズ(Henry Faulds)もその一人である。グラスゴー大学(University of Glasgow)で医学を修める。彼は同時に宣教師でもあった。

フォールズはスコットランドから1874年に来日する。彼を送り出したのはスコットランド長老派教会(Scotland Presbyterian Church)である。1875年に楽善会という視覚障害者の訓盲事業団体の設立に加わり、1879年にジョシュア・コンドル(Josiah Conder)が来日後初めて設計した訓盲院を造る。訓盲院はその官立東京盲学校、そして筑波大学附属盲学校へと発展する。

さらに1882年、東京築地に築地病院を開設する。布教とともに医療活動や医学生の養成に当たった。築地病院はその後、聖路加国際病院となる。主としてコレラなどの伝染病の予防や治療に当たったといわれる。

さらに、大森貝塚の発見者であるエドワード・モース(Edward Morse)とともに各地の貝塚の発掘に従事した。そこで、指紋の特徴に気がつきそれが終生変わることのないものであること、指紋によって個人の識別ができることをまとめ、イギリスの科学誌「ネイチャー」に発表する。この研究は警察関係者に特に注目された。その功績を称え1961年に聖路加国際病院の一角に「指紋研究発祥の地 ヘンリー・フォールズ住居跡」記念碑がつくられた。

指紋の研究と実用的な応用ではイギリスでは多くの論争が続いたようである。だが日本では指紋が犯罪の解明に役立つことを早くから知られ応用されてきた。これもフォールズの貢献といえる。

henryfaulds   Henry Faulds
src_11938480  楽善会

北海道とスコットランド その9  スコットランド人の活躍は続く その2 ジェームズ・マードック

明治政府が最も力を入れたのが人材の養成である。その中心はなんといっても東京帝国大学をはじめ、他の帝国大学の基礎をつくることだったのではないか。

スコットランド生まれのジェームズ・マードック(James Murdoch)第一高等学校(一高)の英語と歴史の教師として迎えられる。一高では1889年から4年間教鞭をとる。

教え子の一人に夏目金之助、後の漱石がいる。漱石は英語が嫌いな学生だったといわれる。だが、マードックを「僕の先生」と呼ぶほどだったという。他の生徒からも敬慕されていたといわれる。漱石は1890年、創設間もなかった帝国大学(後に東京帝国大学となる)英文科に入学する。

マードックは1894年から1897年まで金沢の第四高等学校で英語を教えた。 1899年には東京に戻り、高等商業学校で、現在の一橋大学で経済史を教えた。その後、鹿児島の第七高等学校に移る。1903年に、「初期における外交関係の日本史ー15421651) 」を刊行する。語学の才に長けたマードックはこの本をラテン語、スペイン語、フランス語、オランダ語に自らが訳している。

1917年に、かねてから滞在していたオーストラリアに戻る。王立軍学校(Royal Military College)やシドニー大学(University of Sydney)で日本語を教える。そして終身雇用の教授となる。オーストラリアは当時、白豪主義(White Australia Policy)を掲げていた。オーストラリアは移住制限法などを日本に課していた。それに対して日本はロンドンとシドニーの在外公館を通じて抗議を行ったほどである。白人至上主義の強硬論が豪政府や議会でも根強かったが、マードックはそうしたオーストラリアの国策に批判的であった。

8c317bd5078c80a9ff64adcb9d067137 白豪主義反対デモasahi010101 多民族社会記事

北海道とスコットランド その8  スコットランド人の活躍は続く その1 トマス・グラバー

長崎にあるグラバー園は第一級の観光地である。なんといっても眺めが良く、建物も非日常的なたたずまいである。その館を建てたトマス・グラバー(Thomas Glover)もまたスコットランド人である。

グラバーは上海にあったスコットランド系の会社ジャディン・マセソン商会(Jardine Matheson Holdings)で働く。マセソン商会は、上海を拠点にしてアヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出で巨万の富を得た。それは「アヘン戦争」に深く関わっていた。21歳で来日しやがてマセソン商会の長崎代理店として「グラバー商会」をつくる。

当時、イギリスは世界の貿易をめぐり、フランスとのし烈なライバル関係にあった。徳川幕府を支援していたフランスとの角逐である。「グラバー商会」は、当時船舶、武器弾薬、機械の輸入、さらに茶や貝類、絹織物の輸出で利益をあげていた。亀山社中とも取引があった。製茶工場を造ったり、肥前藩とで高島炭鉱開発に着手するなど商取引を広げていく。薩摩、長州、土佐ら討幕派の雄藩を支援し、日本の近代史の幕開けに貢献する。グラバーは、やがて生麦事件をきっかけに起こった薩英戦争などで悪化した関係修復や強化にも奔走する。

グラバーは商売だけでなく、長州や薩摩の志士を国禁をおかしてイギリスに留学させる。その中に井上馨や伊藤博文らがいた。グラバーは商人ではあったが、先進国の傲慢や優越感にとらわれなかったといわれる。日本文化の良さや利点を学び、それに溶け込もうとした柔軟な精神をもっていたともいわれる。そうした精神構造や適応性は、日本の近代化に参加したスコットランド人に共通した特性といわれる。この点はさらなる検証が必要だと筆者は考える。

日本にやってきたスコットランド人の多くが日本人と結婚している。歌劇「蝶々夫人」のモデルとされるのがグラバーと結婚した談川ツルである。その経緯だが、ツルが格式の高い士族の出身であること、商人である外国人と結婚したことなどが、著者ジョン・ロング(John Luther Long)というアメリカ人小説家の目にとまったようである。西洋の男性にとっては、ゴシップのような話題であったようだ。

809_13_ Jardine Matheson Holdings9長崎市グラバー園

北海道とスコットランド その7  スコットランド人と北海道の開拓 その2 ニール・マンロー

北海道、特に道東と道北は小生が育ったところである。北海道開拓の歴史でもう一人のスコットランド人を紹介する。ニール・マンロー(Neil Munro)である。彼の業績については筆者も使った副読本で紹介されていたのを覚えている。

マンローはエジンバラ大学で医学を学び、インド航路の船医としてやがて日本にやってくる。医師のかたわら考古学にも関心を示す。神奈川の根岸や三ツ沢で貝塚を発掘している。アマチュア考古学者であったが、日本列島における旧石器文化の存在を示唆した。1898年北海道に上陸し、そしてアイヌの文化に惹かれその理解者となっていく。アイヌの木彫りが縄文式土器の文様に酷似しているころから、縄文人はアイヌの祖先ではないかという仮説をたてる。

アイヌ研究はアイヌとの深い信頼関係に根ざしていたようだ。アイヌと一緒に生活し、その文化に深く傾倒していく。晩年は平取町二風谷に長く住みそこで医療活動をする。アイヌの悲惨な境遇に接し、貧困が飲酒と怠惰に原因すると考え、生活の改善策として果樹栽培や畑作、牧畜をアイヌに奨励する。

マンローは晩年になると、国際情勢の緊張によりスパイの嫌疑がかかったこともあったようだ。だがアイヌなど地元の人々はマンローの人柄や研究への情熱に尊敬の念を抱いていた。マンローの葬儀は、アイヌの人の古式にそって執り行われたといわれる。彼が蒐集したアイヌ民具などのコレクションはエディンバラにあるスコットランド国立美術館(The National Galleries of Scotland)に収蔵されているという。

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北海道とスコットランド その6  スコットランド人と北海道の開拓 その1 エドウィン・ダン

北海道開拓の歴史にもスコットランド人が貢献したことを忘れてはならない。その一人がエドウィン・ダン(Edwin Dun)である。

ダンもまた明治期のお雇い外国人の一人。獣医師であり畜産や肉の加工などで多くの弟子を養成したといわれる。ダンの両親はスコットランド人で、アメリカのオハイオ州に移民しそこで酪農を始める。同州オックスフォード市(Oxford)にあるマイアミ大学(Miami University)を卒業後、父の経営する牧場で牧畜全般の経験を積み、さらに叔父の牧場で競走馬と肉牛の育成法を学ぶ。

1873年に明治政府との間で1年間の雇用契約を結び北海道にやってくる。技術指導者として、また獣医として畜産状の技術指導にあたる。札幌西部に牧羊場を、真駒内に牧牛場を開設し、バター、チーズ、練乳の製造およびハムやソーセージの加工技術を指導した。

競走馬の養成にも力を注ぎ、日高の新冠牧場では最高千数百頭もの馬が飼育されたといわれる。種馬や種羊を積極的に輸入し、品種改良や増産にあたった。日高地方がやがて日本における競走馬の主要な産地となっていく。

彼の功績を称える「エドウィン・ダン記念公園」が札幌の中心のやや南の真駒内にある。その中に記念館もある。札幌付近がスコットランドの風土と気候に類似していることから、酪農や食肉加工の地として相応しいこともダンの技術力が発揮できたとも考えられる。

hitsujigaoka  羊ヶ丘展望台Edwin-Dun エドウィン・ダン記念館

北海道とスコットランド その5 スコットランド人と日本のかかわり その3

スコットランドは産業革命より前から世界の科学技術の中心地であり、それを支えた多くの科学者や技術者を輩出している。数学、物理学、化学、細菌学など基礎的科学にはじまり、電気通信、医学など技術・工学の分野、さらに文学、思想、哲学、経済学に至るまで、あらゆる分野で希有な能力をもつ人材を輩出してきた。これは世界に類例を見ないことといわれている。

多くのスコットランド人が北米大陸に渡って行くが、その他の大陸にも発見を求めて雄飛していく。そして日本に、北海道にもわざわざやってくるスコットランド人の心意気は一体はどこにあるのか、どうして生まれたのかを考えている。それがこのシリーズの原点である。

有名な歴史学者のアーノルド・トインビー(Arnold Toynbee)は、スコットランド人をして近代のディアスポラ(diapora–離散された者)と呼んだということである。こうしてスコットランド人の歴史を調べていくと、そこに探検家、宣教師、医師など、特別な技術や知識を有する者が日本にもはるばるやってきていることがわかる。なにか感慨深いものがある。

デヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone)は、スコットランド人。ヨーロッパ人で初めて「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカ大陸を横断する。ハワイ諸島、オーストラリア、ニュージーランドなどを発見したジェームス・クック(James Cook)の父親もスコットランド人である。

明治維新は、封建の世から目覚めたばかりであった。司馬遼太郎が「坂の上の雲」と呼んだ欧米の列強を目の当たりにして、明治政府は日本の近代化のために多くの技術者を招聘した。それに貢献したのがスコットランド人の技術者である。幕末から明治維新にかけ工部大学校(東京大学工学部の前身)の初代総長となったヘンリー・ダイヤー(Henry Dyer)がいる。彼はグラスゴー大学(University of Glasgow)を卒業後、東京で技術者の養成にあたる。

同じく東大医学部の前身東京医学校の初代校長ウィリアム・ウィリス(William Willis)がいる。彼はエディンバラ大学(University of Edinburgh)の出身である。鉄道技師にエドモンド・モレル(Edmund Morel)がいる。1876年に来日し、やがて新橋と桜木町を結ぶ鉄道を建設する。今も「鉄道発祥記念碑」が桜木町駅付近にある。

エディンバラ大学は1583年に設立された、英国で6番目に長い歴史を有する国立研究大学である。エディンバラ大学はこれまで11名のノーベル賞受賞者がいる。グラスゴー大学からも6名の受賞がいるともWikipediaに記されている。すごい業績である。

IMG_00022  ヘンリー・ダイヤーの記事330px-Cook-death クックとハワイ島上陸