文化の日を考える その六 不条理という文化

誰かが「自分は異邦人であり、よそ者であるという視点から物事を見つめることが大事だ」といっています。この稿を書きながら、集団の規範や組織のしきたりに疎かった自分を振り返えると、この言葉になんとなく共感を覚えます。

relativismcriticism

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img_0アルベール・カミュ(Albert Camus)の小説に「異邦人」というのがあります。アルジェリア(Algeria)に住むムルソー (Meursault) が主人公です。養老院での母親の葬儀に参列するのですが、ムルソーは深い悲しみを押しとどめるかのよう無表情です。周りは不思議がります。

あるときムルソーはトラブルに巻き込まれ、アラブ人を射殺します。裁判では、肉親がが死んでからも普段と変わらない行動を問題視されます。人間味のかけらもないと糾弾され死刑を宣告されます。懺悔を促す司祭を獄から追い出し、人々から罵られながら処刑されます。なんとも「不条理」な生き様です。

不条理 (absurd, absurdity)とは馬鹿げているとか滑稽だ、という意味です。人とうまく調和しないこととか、常識を外れた行動または思想といわれる有り様のことです。それは周りに「耳をかさない」孤高の姿のようです。普遍的とか普遍性とは相容れない考えのようです。しかし、そうした生き方もあるのが人生です。不条理とは「文化」の一部なのかもしれません。ナチズムや国粋思想を振り返りますと、そこには高い教育を受けた者が「明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性」(Wikipedia) という側面があるのに気がつきます。

今も「極端」というか「過激」な自文化中心主義(ethnocentrism)が幅をきかせています。国際関係における紛争や対立は、表現や報道の自由、難民対策、薬物対策などをめぐる人権問題、サイバー攻撃といった目に見えない紛争となっています。弱者を蔑視する猟奇的なヘイトクライムも身近に起こる時代です。

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